※無断転載・及び無断商用利用は禁止です。 ■黒い姉と白い弟■ 【あらすじ】 錆の谷に住む女魔術師のクロウと、その弟の白髪の青年レイヴン。 互いを思う姉弟二人の生活は、谷に湧く温泉に浸かったり、 厄介ごとを抱えてやって来た依頼人の相手をしたり。 元は別の地で魔術研究をしていた姉のクロウが、 退職して谷で生活することを選んだのは、弟のカラダのため。 因縁と魔術とナイフのオリジナル西洋風ファンタジー。 ※話の目的は個人の幸せレベルです。国の存亡や世界を救うといった規模の話ではありません。 ※混浴があります。 --------------------------------------------------------------- ■[chapter:1 錆の谷の姉弟] (1)  錆の谷の木々が枯葉をはらはらと落としていた、秋の終わり。 「昼間から入るのも悪くないな」  レイヴンは露天の湯に浸かると、湯を囲む岩の一つに背を預けた。 「最近は寒くなってきたから。レイヴンは、温まったほうがいい」  姉のクロウがレイヴンの正面から言う。年齢が二十を数歳超える割には、高く幼い声色で。  姉は魔術師だ。生まれながらに魔術の素質を有し、数年前まで魔術都市で研究をしていた。今は退職し、ここ――錆の谷に建てた家で個人的に薬の研究に浸っている。  彼女は長い黒髪を大雑把にまとめて、頭の上に結い上げていた。弟のレイヴン同様に温泉に浸かっているので、当然服は着ていない。湯気は上っていても、湯は透明だ。白い肌と豊かに膨らんだ乳房がはっきりと目に入る。容姿は決して悪くないと、弟の身でも思う。 「俺だけじゃなくて、クロウもな」  姉を思いやって声をかけると、レイヴンは傷跡の多い自分の裸体にぱちゃぱちゃと手で湯をかけた。その後、三つに編んだ自分の白髪を弄う。  姉を見ていると医者の不養生という言葉が思い起こされた。己のことには無頓着で、弟のことばかり気にするところがあるから、こちらとしてはもう少し己に執着してほしいくらいだ。  そんなことを頭の片隅で考えつつも、レイヴンは湯に浸かる姉の裸身を眺めて楽しんでいた。冷えた風が首筋にあたって寒いのだろう、時々首をすくめている。子供じみた仕草だが、十分可愛らしく見えた。  女の裸はいいものだ。  そんな折、川原の石の上を誰かが歩いて近づいてくる音がした。ここで襲われることをあまり意識していなかったので、普段使うナイフはシャツやズボンと一緒に岩の向こうに置いてある。  用心が欠けてたか、と内心で舌打ちした時、 「あの、すみません。ここが錆の谷ですよね」  恥ずかしそうな若い女の声が、湯を囲む岩の向こうから聞こえた。岩の裏に隠れて出てこないのは、こちらが裸なのが遠目からでも見えたからだろうか。自分としては、一緒に温泉に入る女が増えるなら歓迎する。 「そうだけど」  レイヴンはにやけた声で肯定する。相手は敵意のなさそうな、しかも女だ。彼女が一緒に温泉に入りたいと言い出すことをわずかに期待したものの、生憎返答は違っていた。 「……では、魔術師はどちらに」 「魔術師は私。何の用で来たの」  即座に無感情に無抑揚に、クロウが答えた。  こんな声が返ってくれば当り前だが、女はクロウの機嫌が悪いと思ったらしい。次の言葉を発していいものか、戸惑っているようなため息が漏れていた。 「ああ、気にしないでくれ。クロウはいつもこんなもんだ。錆の谷の魔術師に何の用だ? 岩の後ろからじゃ、喋りづらい話か?」 「は、はい。あの……」  気が弱いのか、女の態度ははっきりしない。少し押してみるか。 「それならあんたも今からこの温泉に入れ。顔見たほうが話しやすいだろ」 「え!? え、ええ?」 「レイヴンのすけべ」  ……積極的に出たところ、レイヴンはクロウに乱暴に三つ編みを引っ張られる羽目になった。  錆の谷を流れるメイリ川の川原には、ぽっかりと温泉が湧き出ている。  姉弟は谷に来たとき、川原の石や岩を積み上げて温泉を囲い、湯に浸かれるようにした。湯の近くの川岸に研究室を兼ねた家を建てて、主な生活の場にしている。  一日のうち、来客応対や入浴を除いたほとんどの時間を、家に籠って薬をいじって過ごす。それが魔術師クロウのここ数年の生活だった。 「片付いてなくて済まないな。魔術師なんてこういうもんだと思ってくれ」  姉弟は女を川岸の家に招いた。もちろん、湯から上がって服を着てから。  客の女は、年は姉と大差ないように見えた。ゆるく波打った淡い茶の髪を腰まで伸ばしている。丈の長いスカートと地味な色味の上衣に身を包んだ姿は庶民のそれだ。  レイヴンが玄関を開けるとすぐに、辺り一面に散らかった紙切れと書物の山、転がる器材が目に入ったようで、客の女は困惑でひきつった顔をした。足の踏み場もなかったので、レイヴンは先に家に入って転がっていたものを周囲に避け、接待の場所を何とか確保する。積み上げた本にくるっと囲まれたそこは、鳥の巣のようでもある。 「座って」  片付かない家の奥底から、クロウが椅子を持って来て客に勧めた。姉の真っ黒なローブと長く伸びた黒髪は、女魔術師の趣がよく出ている。服の上からは彼女の綺麗な体型が分からないのが――体型を知っている男は自分だけという優越感が、レイヴンは好きだった。  女は腕をさすった後、椅子に腰かける。その後で、レイヴンは自分たちの分の椅子を取りに行った。  机もなしに椅子だけで客の女に向き合うと、彼女はきょろきょろと姉弟の顔を見比べる。 「ええと、魔術師のクロウさんと……こちらは?」 「レイヴン。四歳下の弟」  そっけない声で、クロウは言った。 「私たちのことを喋るより、あなたの用事を知りたい」 「あ……そうでした。その、錆の谷の魔術師が、薬を扱う方と聞いたので」  女はようやく、用件を話し始めた。 「私の名前はニニと言います。町で行商人から薬を買ったのですが、それを服用したら、手に痺れが」  ニニと名乗った女は、上衣の右袖をまくって白い肌を出した。彼女の右腕には、どことなくこわばりが見受けられる。  険しい顔になってニニの腕を見るクロウの横から、 「医者には診せたのか?」  レイヴンが尋ねると、ニニはおずおずと頷く。 「はい……でも、これは魔術の領分だと言われました」 「飲んだのは何の薬なんだ?」  ニニは視線を落として、唇を震わせた。 「飲めば魔術師になれる薬だと言われて、売りつけられたものです」  姉弟はお互いの顔を見合わせた。  魔術師になれるかは生まれついての素質で決まる。クロウにはあっても、レイヴンにはないものだ。後天的に魔術の素質を得る方法は、今のところ存在しないはず。  ――飲めば魔術師に、ね。  レイヴンの頭に、昔の自分が思い出された。魔術の素質を欲して怪しげな薬に手を出す者の気持ちはよく分かる。 「魔術師には生まれ持った素質がないとなれないってのは、誰でも知ってることだろ。詐欺に引っかかって、金を取られたどころか体まで痛い思いをしたわけか」  笑えない話だ。自分への皮肉になる台詞を、レイヴンは吐き出した。  クロウにも聞こえたはずだが、彼女は表情を動かさなかった。何を考えたかは分からない。 「その薬、少しでも残ってる?」 「はい、ここに」  クロウに言われ、ニニは鞄から薬包を取り出した。受け取ったクロウが広げると、中から白い粉が出てくる。 「調べてみる。あなたには、湯に浸かることを勧める」  魔術師になれるという触込みの薬は、クロウの関心と怒りを少なからず買ったようだ。クロウは薬を持ったまま、家の奥――本と器材の山の中に戻っていこうとする。 「待ってください。お湯って、外の温泉ですか?」  ニニの声に、姉弟は揃って頷いた。 「体を温めるのは痺れに効くんだ。ああ、一人じゃ寂しいなら俺も一緒に入ろうか」 「レイヴン!」  姉の苛立ちを含む声が飛んで、レイヴンは苦笑いした。 「ニニも、真に受けちゃ駄目。レイヴンのこれは挨拶。レイヴンは相手が女なら、赤ちゃんからおばあさんまでこんな調子」  クロウはむくれていた。別にいいじゃないか、と彼女に言い返そうとしたが、 「そういう方なんですね……」  ニニも似た感想らしい。軽んじるような視線で見られてしまって、どうにも居心地が悪くなる。  レイヴンは引っ込めることにした。   (2)  その日の夕、レイヴンは川魚を蒸し焼きにしたものを作った。味がよく分からないので、クロウが前に書いた作り方の通りに調理している。そうすればはずれがないからだ。  ニニはその間に温泉に浸かりに行った。クロウが行かせた。弟は料理をするのを放り出して、ニニを覗きに行くことはないだろうという考えらしい。  魚の蒸し焼きが出来ると、レイヴンは皿を盆に載せてクロウの部屋に向かった。  クロウの自室は、廊下以上に物だらけだ。乾燥させた植物の瓶詰や鉱物の入った箱、動物の骨などなどが棚にぎっしり詰まっている。床には覚え書きが記された紙切れや、空の小瓶が散乱していて、「清潔」や「整理整頓」とは程遠い空間だ。しかも換気をあまりしないので、薬品臭が籠っている。  床から積み上げられた多数の本の塔に接触しないように気をつけながら、レイヴンは奥に進んだ。  姉は部屋の隅で、ランプの明かりの元、机に向かっていた。 「クロウ」 「……」  姉を呼んだが、返事はない。彼女はガラス瓶の中の乾燥した植物と手元の本を交互に見て、何かを考え込んでいる。 「クロウ」  レイヴンは前より大きな声で再度呼ぶ。それでやっと気がついたらしい。クロウははっとした様子で、こちらの顔を見てきた。 「あ、ごめんレイヴン。食事ありがとう」  クロウは盆ごと蒸し焼きを受け取ると、魚肉を匙ですくって、自分が食べるより先にレイヴンの口の前に差し出した。  ……食べろ、と。  参ったなと思いながら、レイヴンは首を横に振る。 「俺はいいよ。後で栄養剤をくれ」  クロウは悲しげに黒い瞳を曇らせた。罪悪感がちくりと胸を刺したが、しかし食欲がないのだ。結局吐いてしまうので、無理やり食べる気になれない。  こちらに食べる意思がないのを把握したクロウは、大人しく匙を自分の口に入れた。  蒸し焼きの魚が骨と頭と尻尾のみになると、クロウは皿の載った盆を隅に置いた。水の入った桶でぱちゃぱちゃと手を洗い、軽く拭く。 「味は?」 「おいしかった。ありがとう、レイヴン」  憂いを含んだ笑みをこちらに寄越し、姉は食事で中断した作業を再開する。手元の紙切れにペンを走らせていくつか植物の名前を書くと、乾燥させた木の皮や薬草を瓶から出して、手のひらの上に載せた。 『集約。十は一。一は十。編成』  クロウの唇から紡がれる、魔術言語。  素材は微かな光を放ちながら、クロウの手のひらの上で、さらさらと粉になっていった。あの塊が瞬時に粉末だ。いつ見ても、魔術師という奴のすることには感嘆する。 「魔術師になれるっていう薬の再現か?」  手のひらの粉を薬皿に移したクロウに、レイヴンが尋ねる。返ってきたのは否定だった。 「材料は大差ない、はず。でも、編まれた魔術の根本が決定的に違う」  姉は声を震わせて、机に置かれた白い粉――先程ニニから受け取った薬だ――を、仇敵のように睨みつけた。  クロウはまだ作業を終えそうにない。邪魔をする気もないので、レイヴンが骨の載った皿を持って部屋を出ようとしたとき。 「今夜は寝られそう?」  姉が、不安げにシャツの裾を引っ張ってきた。 「分からない。無理かもな」  こちらの返事に、クロウはいっそう不安をあらわにする。姉は女性としては中背くらいだが、今は本来の背より小さくか細く思えた。 「レイヴン、昨日も寝てない。一昨日も寝てない。辛いなら言って。薬はある」 「……ああ。苦しかったら頼むよ。ありがとう」  裾を引っ張る姉の冷えた手を外して、レイヴンは部屋を出た。  家の中に落ちている本を避けながら台所に行く途中、露天の温泉から戻ってきたニニと出くわした。肌は火照っていて、ほんのりと湯上りのいい匂いがする。 「お帰り」  ニニの容貌は決して悪くない。自然、レイヴンは表情を緩めた。 「ありがとうございます。お湯に独特の匂いがあるのですね。手が少し楽になったかもしれません。あ……私にも、食べるものを分けてもらえますか。お代は払います」  レイヴンが持っていた汚れ物の皿を見て、ニニは空腹を思い出したらしい。恥ずかしそうに腹に手を当てる仕草をした。  じゃあ魚をもう一匹焼いてくるよ、と今度こそ台所に行こうとして、 「それ、クロウさんとレイヴンさんで召し上がったんですか」  ニニが聞いてきた。 「……これはクロウの分だ」 「じゃあ焼くのは一匹じゃなくて二匹じゃないと」 「俺は食事はいいよ」 「魚が嫌いなのですか? でも食べないと体に悪いのでは」  ニニは不可解げな顔になった。  体が悪いのは前々からだ。例え相手が女でも、レイヴンは自分の体質をあまりべらべら喋りたくなかった。嘘にならない範囲で適当に流そうと言葉を探していると、 「あの、クロウさんとレイヴンさんって、姉弟なんですよね。髪の色が違いますけど」  ニニが違うことを聞いてきた。こちらがあまり話したくないことを狙って尋ねられているような気がする。 「クロウと俺は同じ親から産まれてるよ。前は俺も黒かった。年取って白くなるようなもんだな」  話しながら、レイヴンは自分の三つ編みを軽く引っ張った。ニニはますます不可解といった顔をする。 「その若さで? レイヴンさん、まだ二十歳ぐらいですよね?」 「ああ。でもそういうこともあるだろ」  レイヴンは顔だけ笑った。そりゃそうだ、普通はこの年で白髪にはならないだろうなと、頭の中で自嘲して。  ニニは訝しげなままだったが、空腹を満たすほうが先だったのだろう。魚の話をすると、素直に台所まで移動してくれた。  レイヴンは火を起こして、鉄板の上に魚を置き、分量通りの塩と調味料を入れて蓋をした。その後、汚れた皿を水場でざぶざぶ洗い始める。  横で待っているニニの腹がくうと鳴って、彼女は顔を赤くした。 「ニニ。魔術師になれるって薬、どこで買った」 「住んでいる町に来た行商人です。私の町は、この谷のすぐ西です」 「どうして魔術師になろうとした?」 「……父の仕事を助けられると思ったんです。父は医者ですから」  そういうことか、とレイヴンは思った。  先程クロウがしていたように、魔術師には一般とは違う系統の薬を調合することが出来る。 「父に薬のせいで手が痺れたことを説明すると、ひどく怒られました。お前は大馬鹿者だと」 「……」  うつむくニニを見て、レイヴンは今更ながらに過去の己を恥じた。  ニニは真面目な理由で魔術師になりたがっていた。自分よりもずっと。  皿を洗い終えてしばらく経った頃、うつむいたままのニニが声を出した。 「レイヴンさん。治るでしょうか。私の手は」  返答に困る問いだった。  ニニの体を痛めたのは、クロウさえ困らせた薬だ。それだけに、症状をいくらか緩和する程度にしかならないかもしれないな、と内心では思う。  けれど。 「……治るよ。クロウを信じてくれ」  魚の蒸し焼きを皿に載せて、レイヴンはニニの前に出した。  受け取ったニニは表情をいくらか明るくして、台所の机で食べ始める。魚肉をすくう匙を持つ手が利き腕でないのだろう、動作はぎこちない。  それでも、希望を見出した人間らしく、食事を楽しんでいる様子がうかがえた。 (3)  夜は更けて、錆の谷は静寂と冷たい空気に覆われる。  ニニの住む町は谷から近いが、さすがに夜に帰すわけにはいかないので、いくらかの小銭と引き換えに泊めることにした。薬臭く片付かない家だが、そこは勘弁してもらうしかない。ニニも文句は言わなかった。彼女が明日帰るときには、クロウが薬を持たすだろう。  レイヴンは寝てしまったクロウを起こさないように寝所を抜け、外套を羽織って屋外に出た。眠れないので、気分でも変えようと思ったのだ。一応、用心で腰の両脇にベルトでナイフを一振りずつ吊っている。谷に来る前から使っているもので、刃渡りは中指の先から手首ほどの長さがあった。  冷える空気の中、頭上で光り輝く数多の星は宝石箱をひっくり返したようだ。あれは遠い遠い場所から来た光だと、クロウが昔、教えてくれたのを覚えている。  天の星空を仰いだ後、レイヴンは川原に視線を戻して重い息を吐いた。クロウに言われた通り、昨日も、一昨日も寝ていない。その前も大して寝られなかった。それに、栄養剤以外のまともなものを口にしたのは何日前だったろうか。  自分の体は日に日に悪くなっているのだろう。クロウは「そんなこと考えないで、私が治すから」と言い張るが―― 「まあ、自業自得だけどな。この体は」  吐く息は白い。けれども温泉のそばは、この寒い夜でも暖かい。自然、レイヴンは温泉の近くに寄った。がらがらと鳴る川原の石を踏んで、昼間浸かっていた温泉を覗き込む。  特有の匂いがある温泉だ。自分も姉も、すっかり慣れてしまった匂いだが。  温泉を囲む岩の一つに寄りかかっていると、 「……?」  川原の木の間を、何かが動いた。  闇の中を移動するものがいる。この動きは獣じゃない。人間だ。  レイヴンの脚が石を蹴って動いた。こんな夜に谷を移動するものが、堅気であるとは思えない。  がらがらと石の音を立てて後方からやって来る者に、相手が気づくのは当然のこと。 「誰だ」  川原の木々の横で足を止め、低い声で相手は問うた。暗くて顔ははっきりしないが、体格と声からするに男だ。背は自分より少し高いか。細身で、移動を重視しているのか軽装だった。夜に溶け込むような暗色の装束に、腰に下げた得物。闇に紛れて厄介事を働く人間としか思えない。 「それはこっちの台詞だ。こんな夜中に、錆の谷に何の用だ」  レイヴンは臆さず、逆に聞き返した。  男なら容赦しなくてもいいな、とこっそりと考えながら。 「女はどこだ」  男は身上を明かさず、別のことを聞いてきた。 「お前の女じゃないだろ。俺の女だ」 「ふざけていないで答えろ。茶色い髪の女はどこだ」  茶色い髪――ニニか。それなら魔術師狩りではないなと、レイヴンは考えた。享楽や逆恨み、あるいは宗教的動機で魔術師を殺して回る凶漢に出くわすことが、稀にあるのだ。  ではニニが追われるのはなぜか。思い当たることを口に出した。 「魔術師になれる薬が、そんなに大事か? あんなの不良品だろ」  直後。  暗色の装束の男は、刃を抜いてさっと水平に薙いだ。 「っ!」  白い髪が数本切れて宙に舞ったものの、レイヴンの体は既の所でかわした。相手の男は舌打ちをすると、攻撃目標たるこちらにさらに詰め寄って片手剣を振り上げ、下ろす。  そのまま二回、三回と繰り出される白刃の斬撃。  回避のためがらがらと音を立てて後方に下がると、レイヴンは腰に手を当てる。 「薬を使った症状を純粋に見たいだけなら、夜中に追いかける必要も、乱暴な手段に出る必要もないよな」  用心しておいて正解だったなと、闇の中でにやりとする。  こいつの出番か。レイヴンはナイフの柄に手をかけた。   「お前、知っているな。あの女が薬を使ったことを」 「まあな。でも夜中に湧いて出てきた怪しげなおっさんに、女は渡せないな」  左のナイフを逆手で抜刀し、レイヴンは相手の間合いに飛び込んだ。相手は全身を暗色の装束で覆っているが、剣の刃は金属だ。刃はわずかな光を跳ね返して、一本の銀光を作っていた。白い息と同じく、男の位置を示すものとして。  向かってくるレイヴンに、男は片手剣を正面から突く。レイヴンが避けた所に、手首をひねって斬撃をかけようとしたとき。剣を持つ男の腕が、ぐいと掴まれる。  男の瞳に焦りが走った刹那、レイヴンの左手の刃が暗色の装束を水平に裂いていた。  血の飛沫を浴びながら、レイヴンは相手の腹を蹴る。男はくぐもった呻き声を上げて、仰向けに後方の石の上に倒れた。川原の石は白い。夜でも、周囲に飛び散った血痕が分かる。  レイヴンは唇を噛んだ。感触からするに、ナイフの刃は表面を裂いただけだろう。  まあ、これはこれで、だ。生きているのなら話は聞ける。倒れた男の手から剣を遠ざけようとして、 「!」  体に異物を押し込まれる嫌な感覚があった。 「……隙が多いな」  咄嗟に上半身を起こした相手に、右の腿に剣を突きたてられたのだ。剣はすぐに抜かれ、傷口からは血が溢れだす。ズボンにじっとりと血の滲みが広がっていき、足元の石にも血の跡がついた。 「お前に邪魔はさせん」  男が剣を振りながら立ち上がる。  ……それでも、レイヴンの頭の中は冷めていた。普通の人間ならば、最初こそ痛みを感じないが、遅れてやって来る激痛に悶えることになるのだろう。  だが。 「ほう?」  相手の男は驚いて――同時に、面白く感じたようだった。下から聞こえてきた声は、珍しいおもちゃを見つけたかのような風がある。  闇の中でも異様に映ったに違いない。白髪三つ編みの若い男が、刃を突きたてられても、痛みで身をよじるどころかまるで苦にしていない様子なのだから。 「体質に感謝したくなるのはこういう時くらいだな」  レイヴンが自嘲気味にぼやくと、相対する男は悪魔じみて酷薄に笑った。 「お前の体、魔術師がいじっているな」 「……」  こちらが黙した様子から、向こうは図星だと判断したらしい。闇の中であるにも関わらず、男は自分の身体の頭から足までを、検めるかのように眺めた。 「羨ましいぞ。痛みを感じない体なら、恐れもなく戦いに挑める」 「俺を羨ましがるなら、痛覚が欠けてることじゃなくて女にもてることを羨ましがってくれ」  軽口をたたいて、レイヴンは右腰の柄に手を伸ばす。 「あの女と併せてお前の死体を連れて行くか」  言葉と同時に男の剣の先が動き――  剣の斬撃がレイヴンを捕らえるより、レイヴンが相手の至近に入り込むほうが早い。  即座に反撃に転じられなかったことが男の運命を分ける。  レイヴンの右手の刃は、驚愕で目を見開いた男の首を突いていた。   「……何者なのか確認する余裕がなかったな」  歯噛みして相手の男が絶命したのを確認したとき、 「レイヴン!」  聞き慣れた、高い女声が耳に届いた。姉のクロウがこちらに走り寄ってきたのだ。 「いつからいた?」 「斬り合ってる時から。レイヴンが家を出たのに気がついて、追いかけてきた」  見られてたのか。こいつに気づかれなくてよかったと、足下の死体に目を遣って今更ながらに安堵した。  その一方で、クロウは自分の脚の傷に気が向いていた。横になれと厳しい口ぶりで言い放つ。レイヴンが従うと、彼女はこちらの腿を押さえて止血しようとした。 「焦らなくてもいいよ。俺は痛くない」 「痛くなくても、体は損傷してる。ここ押さえて、動かないで休んでて。薬を持って来る」  夜の闇の中で、姉の目に光るものが見えた。涙ぐんでいるのか。 「……ごめんな」  頭上にある姉の頬に、次に自分の胴に垂れる黒髪に、レイヴンはそっと触れた。 (4)  夜が明けてから、ニニはクロウに再度手を見せた。クロウは症状を確認して、片付かない自室の奥から魔術でこさえた粉薬を持って来ると、金と引き換えでニニに渡した。 「しばらくはそれを飲んで様子を見て。治らないなら、また診る。痺れは温めるのがいい。そこの温泉にも浸かりに来ていい」 「ありがとうございます、クロウさん」  ニニは礼を言うと、嬉しそうに微笑んだ。  その様子に、せっかくの機嫌を損ねて怯えさせてしまうのではないかと少し迷ったが――しかし放っておけないことだ。横にいたレイヴンは、渋い顔をして話を切り出した。 「ところでニニ、昨夜のことなんだが」 「……はい?」  □  ニニが帰路に着いた後、姉弟は川原の温泉にいた。  クロウは温泉に浸かっている。レイヴンは温泉の横の岩に寄り添って、岩越しにクロウの湯浴み姿を堪能していた。  昨夜の顛末を、ニニは知らずにいたようだ。襲われる心当たりがないか尋ねたが、彼女は困った顔で首を横に振るばかりだった。怖がって半泣きのニニに無理に頼んで、昨夜の男の死体を見てもらったけれども、薬の売人とは別人らしい。 「何だったんだろうな、あれ。魔術師狩りでもなかったし」 「魔術師になる薬を、服用した人間を追う……」  クロウは口元まで湯に浸かって、ぶくぶくと息を吐き出した。  自分はさすがに怪我があるので、何日かは入浴を止めておけとクロウに言われている。もっとも、この温泉は外傷にも効き目があるので、少し癒えたらむしろ入ることを要請されそうだが。 「レイヴン、傷は大丈夫?」 「ああ。クロウのおかげだ」  いらえをすると、レイヴンは岩にもたれたまま自分の白い三つ編みを弄った。  数年前クロウに再会した後、自分の愚行のせいで睡眠欲も食欲も味覚も痛覚も失い、黒かった髪は白く変じた。笑い事でなく、姉がいなければ生きていられない。  昨夜の男の死体は、ニニに見せてからクロウが粉にした。あの男は自分を差して「羨ましい」とのたまったが、胸がむかつく話だ。どこが羨ましいものか。 「……」  思い出したせいで顔が曇っていたのだろう。気がつくと、湯に浸かる姉が憂げにこちらを見上げていた。 「レイヴン、思いつめないで」 「そうだな。そのでかい胸と尻がある限りは命が惜しい」  湯越しに姉の裸を見ながらにやにやした途端、  ばちゃっ!  クロウが、腕を振って顔に湯をかけてきた。彼女はむくれて、ぷいと背を向けてしまう。  湯を被ったレイヴンの口には温泉の湯が入った。普通の人間ならば塩辛く感じるはずのそれは、自分には無味の液体。 「クロウ、ナイフに湯がかかったら錆びるだろ」  文句を吐いて、レイヴンは岩の後ろにしゃがみ込んだ。腰にはいつも通りに二振りの刃を吊っている。まめに手入れをしないと使い物にならなくなるものだ。  ……俺と同じだな。  晩秋の寒空の下、白髪三つ編みの青年はぼんやり思った。    (錆の谷の姉弟・了) ■[chapter:2 つける薬のない相手] (1)  冬の初めの冷える日。天気はいいけれども空気が冷たく寒い日。  クロウとレイヴンの姉弟は錆の谷の温泉にいた。  湯気の中、肌を晒すクロウの姿は艶めかしい。普段は黒ずくめの色気のない格好で過ごしているから、服を脱いだ時は差が際立つ。曲線をあらわにして湯の中に佇む姿は、なかなかに官能をそそるものがあった。  レイヴンはこの風呂を気に入っていた。湯の中は気分が改善するし、何より姉がいるときは湯治名目の入浴で堂々と鼻の下を伸ばしていられる。  その姉が、こちらを訝しげに見ていた。  「どうかしたか、クロウ」  普段から裸を見ても怒らないのに何か不機嫌になることをしたか? と少々戸惑って尋ねると、 「あれは誰」  クロウは淡々とした口調で言った。彼女は自分の背後の、露天風呂の外に視線を向けていた。 「……女か?」  見ればメイリ川の水際で、一人の女の子がぼんやり立ち尽くしている。 「おいおいおい、川に身投げでもする気か」  遠目ながらも、少女の姿は覇気があるとは言い難い。岩の上の服を取ると、レイヴンは大慌てで身に着けた。  がらがらと音を立てて、石の転がる川原を走って近づく。  川の前で立ち尽くしていた娘も、さすがに音には気がついたようだ。ゆっくり振り返って、虚ろな眼差しをこちらに向けてきた。  十代半ばほどの少女だった。谷の近くの町に住む人間だろうか。肩ほどの長さの金髪が、くるりと内に巻いている。着ている服が上物なので、そこそこ稼ぎのある商家の娘だろうとレイヴンは考えた。 「……何?」  少女は気怠げに言った。クロウ以上に淡白な物言いをする娘だ。 「どうして川を見てる」 「死にたい」 「やめろ」  レイヴンはきっぱりと止めた。   少女の態度はぼんやりとしているが、脚はしっかり立っている。顔色だっていい。もっとずっと死に近い体の自分が生きているのに、これに死なれるのは単純に不愉快だった。 「あんた、つまんない男ね」  口をへの字に曲げた少女が、馬鹿にしたように言う。  顔は可愛いのに口の悪いガキだなと思ったが、まあ、これくらいの年齢の女は生意気な盛りなのかもしれない。レイヴンは内心で無理やり割り切った。 「そうでもないぞ。お前も死に急ぐこともないだろ」 「失恋したんだもん。死なせてよ」  少女の口ぶりは冷めている。これはなかなか生意気な言葉を吐くものだ。 「相手がどんな奴か知らないが、世の中にそいつ一人しか男がいないわけじゃないだろ」  俺のほうがそいつよりいい男だ――そう続きに言いかけて。 「レイヴン、湯冷めする。相手はほどほどに」  姉のクロウが黒服を着て、自分と少女のところにやって来た。妬いているのか否か、クロウは面白くなさそうに少女を一瞥して、ため息をつく。 「……死にたがりにつける薬はない。私は家に戻る」  そっけない言葉を残すと、濡れた黒髪を揺らしてクロウは川原から家のほうへ歩いていった。  クロウとの距離が離れた後、 「もしかしてあの女、この谷に住んでるっていう魔術師?」  冷めて乾いた少女の声に、レイヴンは頷いた。 「じゃあ、あんたは何?」 「さっきの魔術師の弟だ。俺は魔術師じゃないが」  「……へえ。お姉さんが魔術師なのにあんたは違うんだ」  どうも余計な事を喋ってしまったらしい。少女は口を意地の悪い形に歪めて笑うと、こう口走った。 「格好悪い」    ……憎たらしい。  顔立ちは可愛いが、本当に憎たらしい。 「レイヴンってあんたの名前? あたしはネリー」  相手は女だ。だからその分は贔屓して、レイヴンが少女の顔を複雑な思いで見ていると、 「あたしのこと下品な目で見るのはやめて。あんたみたいなおじさんには興味ないから」 「……」  すげない口ぶりで、ネリーという名の少女は不満を口に出した。  確かに自分のほうが年上だろうが、しかし露骨におじさん呼ばわりされるのは腑に落ちない。ぎりぎりではあるけれど、こちとらまだ十代だ。 「それともお爺さんって呼んだほうがいい?」  ネリーはこちらの髪が白いのを嘲って付け加えてくる。けれど彼女には、からかって楽しんでいる様子はなかった。表情の変化にも、声の抑揚にも乏しい。この娘の青い目に何が映っているのか、レイヴンにも量りかねた。 「あんたに邪魔されて、気分悪くなっちゃった。今日は帰る」 「帰るのか。うちに泊まっていってもいいぞ」  現状、この娘を泊めてもいいというクロウの許可はない。それでも軽く誘ってみたが、 「お断り。あんたに何されるか分かんないんだもん」  淡白に拒否を突きつけて、川原の石を踏んでごとごと音を鳴らしながらネリーは歩き去って行く。  徐々に小さく遠くなっていくネリーの背を見ながら、レイヴンは頭の後ろを掻いた。 「振られたか……まあいい。すっぱり諦めてクロウに構おう」  冷たい風の中で悔しさをこぼしながら、一方で内心ほっとしていた。あの様子なら、彼女は途中で自死することはなさそうだと。  元々クロウはあまり外に出たがらない。川で釣りをしたり、山に入って兎捕りの罠を仕掛けたりするのは、ほとんどレイヴン一人でやっていた。薬の材料の草木採集も頼まれることが多い。  薪割りなどのその他の力仕事も大抵は自分に回ってくるが、特に不満はなかった。クロウのように部屋に篭りっきりで本を読んでいるのは、自分の性質に合わないからだ。体を動かしていると、その分気が晴れる。歪んだ自分の体のことも忘れていられる。  けれども今は冬。谷には雪が降ることもある。川原の温泉に浸かりに行くのはともかく、悪天候の中、雪を分けて山に入るのはさすがに避けていた。  ネリーが来た日から数日経ったある朝。外は雪だった。白い川原の石の上に、もっと白い雪が覆いかぶさって、黒く見える木々の幹や谷の岩肌との組み合わせで白黒無彩の風景を作っている。 「おはよう、レイヴン。外」 「ああ、雪だな」  昨夜も眠れなかったから、クロウが寝ている間は雪と彼女の顔を交互に眺めて時間を潰していた。  ごちゃごちゃと本だらけの寝室で、寝起きのクロウは眼をこする。いつものことだが、朝の姉の顔はさ白い。きちんとしていれば美しい顔のはずが、乱れた長い髪とあいまって、墓から這い出した生ける屍のようにぞくりとするものがある。  もちろん、今がそういう様子なだけで昼になれば顔色は良くなる。姉は自分よりずっと健康だ。 「昨日、寝なかったの?」  クロウは寝台で上半身を起こし、隣の椅子に座っていたこちらの服を掴んで聞いてきた。自分より背が頭一つ分低いから、彼女の黒い頭の頂が顎に触れそうになる。 「ああ」 「朝ごはんは食べられそう?」 「……欲しくない。ごめんな」  レイヴンが答えると、黒い姉は弟の服を掴む手を震わせて、俯いた。    クロウからもらった味の分からない薬剤を喉に流し込んだ後で、彼女の食事のためにレイヴンが塩漬けの魚を取り出したとき。  台所に来たクロウは妙におかんむりだった。 「どうした?」 「外」  クロウは木窓を差す。首をかしげたレイヴンが窓を少し開けると、冷たい風が吹き込んでくるのと同時に、人影が目に入った。  先日の口の悪い少女――ネリーだ。酔狂なことに、雪の中、ここまで歩いてきたらしい。 「……レイヴンはあの子にちょっかいかけたはず。責任は、自分で」  言い放つクロウの高い声は、今の時期の――冬場の刃物のように冷えて鋭い。思わず引きつった笑いが出た。  ネリーにどう対応したものか、俺に告白に来てくれたなんて都合のいいことはないよな、と考えながら、レイヴンは恐々家の玄関の戸を開けた。 (2)  玄関の戸の向こうには、雪を被った金髪の少女がいた。少女はレイヴンの顔を見ると、髪についた雪を払って、関心薄い視線を向けてくる。 「ネリーか。よく来てくれた。寒い中どうした?」  相手は年下の女の子だ。しかもわざわざこんな大したことのない家まで来てくれたのだ。向こうの思惑はどうあれ、レイヴンは歓迎する風を見せた。 「……ここ、魔術師の家でしょ。あんたのお姉さんの」  返ってきた声は平坦だった。ネリーはその歓迎を全く嬉しいと思っていないらしい。 「魔術師に何の用だ」  もう一度レイヴンが尋ねると、気怠げで無表情なままネリーは言った。 「楽に死ねる薬が欲しいの」  冷えて白い息を吐き出して、彼女は続ける。 「家に帰って刃物や水を見てたんだけど、痛いのも苦しいのも嫌なのよ」 「帰れ」  さすがのレイヴンも、少女の身勝手な言い草には不愉快になった。  死ぬにしても他人に頼って死ぬのか。自らの手でなく。 「あんた魔術師じゃないんでしょ? お姉さん呼んでよ。魔術師の」 「クロウは休んでる」  レイヴンは手をひらひらと振った。これと姉と衝突させたくはないし、何より姉本人も、ネリーを快く思っていない。 「お姉さんは中にいるでしょ。黒い服が見えるから」  言われて、後ろを振り返った。確かに本棚の陰から黒いローブの裾が覗いている。クロウはこちらの動向をずっと窺っていたのだろう。  自分と招かれざる客の両方の視線を受けて、渋々といった様子で頭を押さえながら、クロウは玄関に来た。機嫌の悪さがひどくなっているように見えるのは、気のせいではないだろう。 「帰って。私は言ったはず。死にたがりにつける薬はない」 「けち」  毒づくネリーを、クロウは黙殺することにしたようだ。  とてもとても居心地の悪い空気の中、一つ思いついたことがあったので、レイヴンはネリーに確認してみた。 「ネリー、お前、実は病気でもしてるのか? 医者が匙を投げるような」 「違うわよ」  ……不治の病というわけでもないらしい。  クロウは黒い瞳に鋭さを宿し、ネリーの顔を真っ直ぐ見る。 「整えた金の髪。一人でここまで来られる脚。裕福な家の上等な服。健康な肌」 「……それが?」 「私はあなたの望みのものは提供しない」  少女にきっぱりと宣告し、くるりと踵を返して黒い魔女は屋内へ戻っていった。 「……あたしはこんなに苦しいのに。お金ならあるわよ」  少女は小声で愚痴をこぼす。相変わらず覇気のない声に、思い通りにならない悔しさが滲んでいた。  その金を稼いだのはお前じゃなくて親じゃないのか――そうレイヴンが言いかけたとき、ネリーはこちらの体を押して無理に家の中に入った。 「おい」   こちらが止めるのも聞かずにずけずけと屋内に侵入したネリーは、しかし、積み重ねられた本と散らばった紙切れのおかげで足止めを喰らった。踏みつけるのは躊躇われたようだ。 「汚いわね」  ネリーの手厳しい批判が飛んでくる。まあ、汚いことを否定はしない。レイヴンは聞き流すことにして、金髪の少女に近づいた。 「帰るんだ」  自分もクロウと同意見だった。この少女の望みを叶えてやる気はない。  ネリーが不愉快そうに舌打ちをしたすぐ後。彼女はふと、棚に気を留める。 「刃物があるじゃない」  彼女はそこに置いてあった、レイヴンの二振りのナイフに手を伸ばした。  自分の首か胸にでも突き立てる気か? 「待っ――」  ネリーの行動にぎょっとしたレイヴンが、彼女の腕をつかもうとしたとき。 「はい」  ……ネリーは無表情で、手にした一振りのナイフをこちらの眼前に向けた。鞘ははめたままだ。あやうく鞘の先が自分の目にぶつかるところだった。 「痛いのは嫌だけど、即死なら痛いも何もないわよね」  レイヴンがナイフを分捕ると同時に、少女は言う。彼女は声も顔も無気力だが、根本は横柄だ。ことさらに憎たらしい。  ちなみに鞘に収まってはいるが、柄ではなく刃のほうがこちらに向いていた。ネリーは、これで刃物を安全に他人に渡すつもりだったらしい。 「殺してよ。そのナイフであたしを刺すの。出来るでしょ」  少女の要求を、 「断る」  とうとう苛立ちを隠さずに、レイヴンは突っぱねた。  相手が女なのに、ここまで自分が苛々するのも珍しい。いや、男だったらとうに殴って黙らせているところか。 「痛いのは嫌だし、失敗もしたくないし」  ネリーが自分勝手な理由でごねる。  彼女を擁護するわけでは全くないが、自殺は存外難しいらしい。心中を図ったが、相手は殺せても自身は死にきれずに生き延びてしまうことは少なくないと、昔聞いた。自殺をし損ねて苦しんでいる者を見たことは、レイヴンにもある。自分で自分を殺そうとしても、なかなか一思いにぐさりとはいかないようだ。  それでもネリーが未だ棚にあるもう一振りに手を出さないかと気を張っていると、少女は今度はこう言ってきた。 「この二本ってさ、果物切ったりするナイフじゃないわよね。もっと野蛮なことに使うナイフよね。あんたもそれで人を殺したことあるんでしょ」 「……」  嫌なところを嗅ぎ付けるものだ。レイヴンは答えなかったけれども、無意識に顔が動いたらしい。ネリーは表情の乏しいままだが、どこか勝者のような優越を帯びた。 「やっぱりね。だったらいいじゃない。もう一人殺したって大して変わらないでしょ」 「あのなあ……」  いい加減扱いあぐねて、頭が痛くなってきた。罵倒の言葉が喉から出そうなのを、ぎりぎりの領域で踏み留まっている。  クロウは完全に奥に引っ込んでしまったようで、応援は期待できそうにない。  責任は、自分で。姉の言葉がレイヴンに圧し掛かった。  確かに下心なしで近づいたとはとても言えないが。  だとしても、どう相手すればいいんだ。こんなつける薬のないようなガキを。  力ずくで玄関から押し出しても、またのこのことやって来るようではクロウが怒る。かといって外の雪に倒れ込んで凍え死なれても、それはそれで後味が悪い。  腹立たしさで頭の中まで停滞しそうだ。先程奪い返した自分のナイフをぐっと握って、  ……そしてふと思った。ネリーはどれくらい死を知っているだろうかと。   (3)  レイヴンはナイフの刃を抜いて、内心の苛立ちをぶつけるように左手で刃を握った。右手で柄を引くと、固い金属は易々と左手のひらと指の皮膚を切る。 「え?」  この行動は予想外だったようで、ネリーはぎょっとして目を見開いた。  レイヴンも驚いた。初めてこの娘の生気の通った反応を見た気がする。 「な、何? そんなことして痛くないの?」 「痛くない」  事実だった。自分の体質についてはひとまず伏せて、痛くないことだけを淡々と告げる。  ナイフの刃には引きずった血がついて、ぬるぬるとして赤い。  思いつきで取った行動だが、突破口が見えた気がした。大層なことを吠えたくせに血で驚くのなら、やりようがあるかもしれない。 「あたしに同じことしろって言うの?」  棚に残ったもう一振りを取ろうとしたネリーを、レイヴンは制した。 「真似しろとは言わない。だからあれを飲んでみろ」  玄関には汲み置きのかめが置いてある。中身は真水ではなく、温泉の湯だ。と言っても、もうとっくに冷たい水になっているが。  レイヴンはナイフを脇に置き、かめの上に掛けてあった器を2つ取って、両方に温泉の水を汲んだ。一方をネリーの前に出すと、 「これは何?」  当然ながら訝しげに問うてくる。 「飲んでみろ。毒でもただの水でも、お前にはどっちでもいいだろ」  自分でも飲んでみせる。何の味もない透明な液体だ。もちろん自分にとっては、だが。  飲んでも平然としている自分を見て、ネリーは不承不承器に口を付け、 「何これ、塩辛いじゃない!」  即座に吐き出すと、嫌悪でさっと顔を歪めた。  今までとは違って、彼女は怒鳴り声を上げた。騙されたと言わんばかりにこちらを睨んで、赤い唇の間から舌を見せている。  対するレイヴンは、却って落ち着いて彼女に接する余裕が出来た。出てくるじゃないか、生きた反応が。 「温泉の湯を冷ましたもんだ。塩辛いか?」 「そう言ってるでしょ。こんなの飲んで平気なあんたがおかしいわよ!」 「俺には何の味もない」  突っ返された器を受け取って、レイヴンはさらっと言った。二つの器の中身を捨てると、器をまた掛け直し、ネリーのほうを向く。 「お前はどこで眠ってる?」 「? うちのベッドの上よ」 「眠れるか」 「まあね。使用人が寝ろ寝ろってうるさいし」 「俺はここ数日一睡もしていない」  レイヴンの返事は、ますます不審に思われたらしい。ネリーは眉根を寄せた。 「……どういうこと? あんたさっきから気味が悪いんだけど」  少女の青い瞳が疑念で濁る。けれどもレイヴンは落ち着いて、灰色の瞳で少女を見返した。 「昔、体が狂ったんだ。それ以来俺は、痛みも感じないし味覚もない。眠れもしない」  普段はあまり他人に喋る気がしない身の上を、レイヴンは説明した。この少女には効くだろうと思ったのだ。  普通ならひりひりするはずの切れた左手は痛みも何もなく、温泉水を入れたはずの口には塩辛さなどない。その上腹も減らない。眠ることもできない。前述の症状に比べればずっと軽微だが、髪が白くなったのも体の悪化を示すものだと思っている。 「なんでそんな体で生きてるのよ。馬鹿じゃないの?」  理解できないといった様子で、ネリーは頓狂に叫ぶ。  発狂してもおかしくない状態の体で、それでも自分が生に執着しているのは、 「クロウを置いていけないからだ」  静かに、けれど確たる強い意志を込めて、レイヴンは答えた。  本当なら死んでいたところを、クロウは救ってくれた。彼女は今なお見捨てずにいてくれる。ぼろぼろになったこの体でも、自死を選ばずにいるのは、姉の支えがあるからこそだ。 「姉が……クロウが救ってくれた命だからな。こんな体でも死ぬのが惜しいんだ。クロウを泣かせるのは嫌なんだよ」 「……」 「血縁ってのは面倒なもんで、どうあってもお互いを助けたいらしいんだよな。ネリー、お前の家族は?」 「……父親と母親。きょうだいはいない」  レイヴンは続きに、善良な親かどうかを聞こうとしたが、止めた。子供をいたぶったり、放置するような良くない親ならば、ネリーはそのことを吐き出しそうな気がしたからだ。思いを巡らすような彼女の沈黙が、逆に語っているものがある。 「好きなの? あのお姉さんのこと」 「ああ」  ネリーの問いに、レイヴンは頷いた。 「クロウはあれでいて脱ぐといい体してるしな」  ただし最後の一言は余計だったらしい。笑いながら喋ったのも良くなかったかもしれない。  冷めた顔になったネリーが辛辣な人物評を寄越してきた。 「キンシンソウカン願望のヘンタイ」 「……何とでも言ってくれ」  ひんやりとした外の空気が戸の隙間から染み入ってくる。  思うことがあるのか、しばらく無言で立ち尽くしていたネリーがあくびをかみ殺して、 「帰る」  退屈そうに言った。彼女の愛らしい唇は、憎たらしい口ぶりで不平不満を紡ぎ続ける。 「あんたみたいなつまんない男の話を聞いてるなんて、馬鹿らしくなっちゃった。女魔術師はあたしの話は聞きませんーってお高くとまってるし、弟は変態だし、家は汚いし、変なもの飲まされるし最っ悪」  少女は大げさにふるふると頭を振って、その後頬をふくらませた。 「うちで父親の仕事の話と母親の服の話に付き合ってたほうがましじゃないの」  こう感情が出るようになると、生意気盛りでも随分可愛く見えるものだ。 「失恋がどうとか言ってたが、代わりの恋でもしたらどうだ」  何なら俺が相手に――とレイヴンの口から出る前に、 「そうするわ。あんたみたいな病人の変態じゃない男とね」  ネリーが減らず口を叩いてあかんべえをしてきた。こちらとしては苦笑するしかなかったが、けれども心の内では安堵していた。  この様子なら彼女はきっと、帰ってからも生き生きと過ごすだろう。  □  雪の中でもしっかりした足取りで帰路に着いたネリーを見送ってから。 「また傷を作るなんて」  片付かない台所の卓上で、レイヴンはクロウに温泉の水で切った手を洗ってもらっていた。温泉の水を使うのは、消毒の効果があるからだそうだ。  普通の人間なら染みて痛いのだろうが、自分の体は全くそんなことはない。ぱちゃぱちゃと冷たい水のかかる感覚があるだけだ。 「仕方ないだろ。俺はクロウの言った通り、ネリーを責任持って帰したんだ」  不器用な自分にしては上手くやれたほうだと思っている。  対するクロウは、半ば呆れたように嘆息した。レイヴンの手を拭いて、小瓶の薬を傷口に塗布する。 「仕方なくはない。傷はしないほうがいい。レイヴンは痛みが分からないから、傷が深いか浅いかの自己判断も鈍ってる」 「今回はそんな大それた怪我じゃないだろ……ありがとな」  納得のいっていない顔のクロウに礼を言って、レイヴンは薬臭くべっとりした左手のひらを眺める。 「温泉のお湯も、直接の飲用には適してない。味が分からないからって飲むものじゃない」 「分かってる」  心配するクロウを窘めるのに、その後のレイヴンは多少の手間を要した。  それでも。 「薬をつければ治る傷は楽だな」  つける薬のない――本質的に治る様子のない自分の体のあれこれに比べれば。  (つける薬のない相手・了) ■[chapter:3 人形遣いの住まう家] (1)  冬の寒さの合間になる、日差しが暖かいある日。  『ちょうせんじょう   さびのたにのまじゅつしくろうへ  おまえにまじゅつのしょうぶをもうしこむ  もりのにんぎょうつかいより』  ……こんな手紙が、クロウとレイヴンの住む家に届いた。  台所に日中の陽の光が入って来るので、今日は冬にしては明るい。その台所の食卓の前で、 「何だこりゃ。子供のいたずらか?」  レイヴンは下手くそな字の書かれた紙を、人差し指でぴっと弾いた。 「いたずらとは言い切れない」  受け取り人である姉のクロウは、腕組みをしたまま困惑している。  この挑戦状にはご丁寧にも地図まで付いている。人形遣いとやらの居場所は、姉弟の住む錆の谷から、南東にある森を示していた。地図はいかにも子供の手によるものといった風で稚拙ではあるが、地理を読み取ることが可能な程度には描かれている。  しかし……子供の人形遣いなど、心当たりがまるでない。 「森の人形遣いって……思い当たる奴はいるか?」  クロウは首を横に振った。長い黒髪が連れだって揺れる。 「魔術都市アルアトの管轄内で魔術師が独立したなら、話が流れてくるはず。その森に魔術師がいたという話も、新しく移り住んできたという話も聞いていない」  異動に関してはレイヴンにはよく分からないが、元々魔術都市アルアトで研究職にいた姉が言うならそうなのだろう。 「魔術師狩りが子供の振りして呼び出そうとしてるのかもな」  思いつきを口に出すと、姉はあっさり否定した。 「それはない。その手紙、持って来たのは魔術師の使い魔。思念が残ってる」  手紙は玄関に差し込まれていたので、クロウもレイヴンも持って来た人物の顔を見ていない。しかし使い魔が持って来たのなら、そのまま人形遣いとやらが魔術勝負をしたがっていると考えて差し支えなさそうだ。 「考えられるのははぐれの魔術師。放置すると、アルアトが怒る」  クロウは困ったように息を吐き出した。姉は退職している身だが、所属がアルアトから動いたわけではない。魔術の実験器材や薬の原料を手配してもらえるのは、かつての立場の恩恵だった。  彼女が退職したのは、体が狂った弟の世話をするため。それも、周囲の反対を押し切って。 「……様子を見に行く」  個人的な都合で魔術都市を去った負い目だろうか。姉は、日頃家にこもりがちな彼女にしては珍しく、外出を決めたようだった。 「レイヴン、ありがとう。一緒に来てくれて」 「クロウ一人で来いとは書いてなかったしな。それに途中で魔術師狩りにでも出くわしたら困るだろ」  クロウとレイヴンの二人は、谷を出て小道を南東へ進んでいた。レイヴンはいつも通りに、腰に二振りのナイフを吊っている。  今は冬だが、幸い雪は解けて道にも脇の果樹にも残っていない。差し込む陽の光は暖かく、冬の合間の、一時的な陽気に包まれていた。  外套にくるまって、時々吹く冷たい風に耐えながら姉弟は土の道を歩く。途中、橋のない小川があった。川自体は浅く、歩いて渡れそうに見えたのだが、 「渡れるか?」  気になって姉に尋ねた。小川を睨みつけているからだ。 「……渡る」  意を決して川に足を入れかけた姿を見て、レイヴンはようやく気がついた。 「ああ、ローブの裾が濡れるか。じっとしてろ」  姉の膝の裏と背に腕を回してひょいと横から抱き上げると、 「……!」  クロウは黒い髪の下、顔を赤くした。  いつも一緒に露天風呂に浸かって裸を見てる間柄なのだから、今更この程度で照れることもないだろうにと思うが――なぜかこちらまで照れくさくなった。変にどきどきする。姉の反応につられたのだろうか。  姉を抱えたままでレイヴンは小川を渡った。水は深いところでも膝下までだったので、クロウは裾をつまんで渡れば済んだのかもしれないが、まあいい。  岸に着いてから、姉は気恥ずかしそうに礼を言ってきた。 「ありがとう。私の体、重かったと思う」 「俺は気にしてない。重いのは胸と尻の肉の分だろうしな」  ……レイヴンが軽口を叩いた途端、クロウはむくれてそそくさと降りた。  濡れたブーツとズボンを拭いた後、水で――おそらくは雪解けの――ぬかるんだ道を歩いた。何度か休息を取りながらも歩き続け、昼と夜を数回繰り返し、とある場所まで来た。黒い魔女と白い弟は地図を確認する。  葉が落ちて、枝と幹になった樹木が立ち並ぶ土地に着いたのだ。  手紙と地図で指定された場所。人形遣いとやらが住む森に。  濡れてべっとりした落ち葉を踏みつけながら、クロウとレイヴンは森に足を踏み入れた。木々はほとんど落葉していて、幹と枝だけの姿になっている。 「人形遣い……」  クロウは、かの者についてどこかで聞いたことはなかったか記憶を探っているようだ。しかし現状何も思い当たるものはないのか、特にこちらに話しては来なかった。  晴れてはいても、今日の空気は冷たい。寒い森の中で息をすれば白くなった。樹皮も枝も露で濡れた木々の陰には、褐色の落ち葉の狭間にまだ雪が残っている。葉のない木ばかりでも、森はあまり陽が入らないのだ。  木の間の、葉を退ければけもの道程度の通路になっているだろう所をしばらく奥に向かって歩いて、 「……人形遣いが住む家ってのはこれか?」  建物の前で、レイヴンは呟いた。  目の前に現れたのはどっしりとした石造りの屋敷。二階建てで、屋根の上や壁には人物の彫像が据えられている。苔むした土台と蔦の這う壁面からするに、ここ最近の建物ではなさそうだ。もともと別の人間が建てたものを、人形遣いが拝借したのだろうか。  二人が警戒しながら屋敷の門扉に近づくと、人形が転がっているのに気がついた。木製で、レイヴンの手の指先から肘までくらいの大きさの人形。目や口、鼻が描き込まれているが髪はない。胴体の部分には、衣服を模してか赤く色が塗られていた。  何かの罠かもしれないと、レイヴンがクロウを後ろに下げかけた、そのとき。  木製の人形は独りでに起き上がった。 「ヨウコソ、サビノタニノマジュツシ。テガミハヨンデモラエタヨウダナ」  人形は奇妙な音域の声で、けれども意味の通じる言葉を喋った。人形のくせに仰々しく礼をする。 「使い魔。人形遣いはどこ」  クロウが尋ねる。使い魔は「ヤシキノナカ」と、至極普通の答えを返してきた。 「人形遣いの使い魔、ね。うちに手紙を持って来たのはお前か?」  今度はレイヴンが問う。使い魔の人形は口が稼働する作りになっていないので、頭の奥から声を発していた。 「ソノトオリ。ダガ、オマエハヨンデイナイ。オマエハマジュツシデハナイ」  人形遣いは姉のクロウだけが来ると思っていたのだろうか。確かに手紙に書いてあったのはクロウだけだが、自分もここまで来たのに除け者扱いでは癪に障る。姉一人を怪しげな場所に放り込むのも気が進まない。レイヴンは口を尖らせた。 「家族の同伴ぐらい、いいだろ。門を開けろ」 「オマエハヨンデイナイ」  使い魔は繰り返す。  仕方ないな、と独りごちて、レイヴンは強硬手段に出ることにした。つかつかと人形の前に出て、左手で木の首を掴んで持ち上げたのだ。  斜め後ろのクロウは、やり方が乱暴だと言いたげな顔をしていたが、声には出さず黙っている。 「オマエ、ナニヲスル!」 「いいから開けろ。開けないと、こいつでお前の手足を切り落とす」  わざと低くした声で言うと、右腰の刃を逆手で抜いて、人形の目の前で白銀の切っ先を動かす。  笑った顔が描かれただけの木の人形が、この脅しをどう思ったかを察するのは難儀だが―― 「……ワカッタ。モンヲアケヨウ」  一時の間を置いて、人形はこちらの言い分を承諾した。  木の人形はレイヴンの手から逃げるかのように降り、ひょこひょこと二足歩行をして、両開きの門扉に近づいた。ぺたりと木の両手を門扉に付けると、門はぼんやりと緑色に光る。光が収まると、重い音を立ててゆっくりと中央から開いていった。 「使い魔自体が鍵……」  背後にいた姉が、感心したように声を上げた。 「ハイレ」  開いた扉の横で人形が言う。  それじゃお邪魔させてもらおうか。レイヴンは右の刃を鞘に戻した。姉に先行して屋敷の中へと足を進めて――数歩。  ごとん。  鈍い音とともに足元の床がぱっくりと割れ、虚無の闇が口を開いた。下には何も見えない。 「! 落とし穴――」 「レイヴン!」  頭上から姉の呼ぶ声がして――  伸ばされた姉の手を握ることも叶わず、体はそのまま、下へ下へ落下していく。  上から注ぐ光と声を遮り防ぐように、ぱたん、と天井が閉じる音がした。   (2) 「……やってくれるな、あの木偶人形」  深い深い闇の底で、よろよろと体を起こしながらレイヴンは舌打ちをした。  ずいぶん下に落ちたようだ。  ただ、落とし穴の下は何かが山になっていたようで、落下の衝撃を受け止めてくれたらしい。ぶつかった感覚はあるが、骨が折れたり、強く打って出血しているということはなさそうだ。周りは暗くて、何が置かれているのかよく分からない。体感では、こぶし大の丸いものが大量にある感触だった。 「ここはどこだ? クロウ? いるか?」  闇に向かって呼びかけるが、しかし、返事はない。 「参ったな……」  上に一人残ったクロウはどうしているだろうかと、疲れた息を吐いて天を仰ぐ。  自分が落ちてきたのは、この上からで間違いないはずだ。手探りで周囲を確かめると、ひんやりしたものにぶつかった。固い石――壁だろう。真っ直ぐに切り立ったこれを登って上まで行くのは無理があるなと、苦々しく思った。  右こぶしを下に向けて丸いものの山を殴りつけた後、山から滑るように降りて、周囲をこんこんと手の甲側で叩く。今しがたの落とし穴と同様に何か罠が仕掛けてあるのを警戒してのことだが、壁や床に細工がされているわけではなさそうだ。  ここにいても埒が明かない。行けるだけ進むか。  レイヴンは左手を壁面に這わせて、闇の中、歩みを進めた。  しばらく壁伝いに歩いた後、ぼんやりとかすかに光る階段にたどり着いた。  姉の待つ上に出られる階段ではなく、下に向かう階段だった。奇怪で不穏な空気が階下から滲み出てきている気がしたが、進むほかない。腰に吊った二振りを確認して、一歩一歩下りていく。  冷えた階段を下りた先の通路は、階段同様に光っている。この緑の光は、屋敷の門を人形が開けたときに見たものだと、レイヴンは思い出した。そして気づく。 「……魔光灯か」  進行方向に、もう少し強い明かりが見えた。魔術の光だ。  レイヴンは足音を忍ばせて、明かりの漏れる隙間に近づいた。   隙間の向こう側は部屋になっている。クロウの部屋によく似た、器材と本の散らかった空間だ。決定的に違うのは、人形が何体も、四肢の揃ったものも作りかけのものも、ごろごろと置かれていることか。  一体の人形を抱えた子供が、縦に長い楕円の鏡を見つめていた。自分の顔をそんなに見ていたいものか? と初めは疑問に思ったのだが、鏡が映すのは子供自身の姿ではないようだ。どこか別の空間を、魔術のかかった鏡を通して覗き見ているらしい。  子供は褐色の髪を肩ほどに伸ばしていた。頭の天辺で小さく結っているので、小さな箒が頭にくっついているようにも見える。歩くときに踏みつけてしまいそうな、身長に合っていない丈の緑のローブを魔術師然として着込んでいた。  子供。人形。魔光灯。魔術の鏡。つまるところ……あれが人形遣いか。  落っことしてくれたのは使い魔だが、元をただせば主はこの子供。  男か女かは、ここから窺っている限りではよく分からない。  よし決めた。男なら叱ろう。女ならいくらか手加減して叱ろう。  レイヴンは堂々と、部屋の扉に手をかけた。鍵はかかっておらず、あっさりと開く。 「え?」  人形遣いと思しき子供は、完全に予想外といった様子で、こちらに振り向いた。   「お前、ど、ど、どうやってここに……」  年齢は十を越えたか否かの子供が、布製の人形をぎゅっと抱きしめて後ずさりする。目深な前髪の間から、ぎょろっとしたまん丸の目玉がこちらに向いていた。 「落とされた場所から歩いてきた。あんな場所にずっといるわけないだろ」  声と顔から、ああこれは男か、とぼんやり考え――レイヴンは子供に近づく。人形遣いの少年は、怯えてかたかたと歯を鳴らしていた。 「御大層な挑戦状を送って来たくせに臆病だな。クロウはどこにいる」 「う、うるさいぞ! ボクが呼んだのは魔術師だけだ。お前なんか呼んじゃいない!」  臆病と言われたのが癇に障ったのか、少年は早口でまくしたてた。魔術師クロウを呼びつける挑戦状を送ったことを認めたから、この少年が件の「もりのにんぎょうつかい」本人で間違いない。  レイヴンにはよく聞き取れなかったが、少年は早口の最後に魔術言語らしきものを唱え――  途端、周囲に転がっていた布製の人形が、一斉にレイヴンに圧し掛かってきた。 「おいガキ、クロウはどこに――ちっ!」  レイヴンは脚に絡まった人形を振り払おうとしたが、 「ツカマエタ」 「ツカマエタ」 「シュジンサマ、ジャマモノヲツカマエマシタ」  人形たちは蹴飛ばしても蹴飛ばしても、執念深く張り付いてくる。人形の背丈は、先程門の前にいた木製人形と同じくらいだが、何せ数が多い。それに、見た目に反して力がある。集団で足にまとわりつかれては、動きを封じられたも同然だった。  うんざりしたレイヴンが、右腰の刃を抜いて、足元の一体の首をざっくりと切る。首は勢いで転げて、ぽとりと床に落ちた。顔は笑っている。笑ったままの首が、落ちている。 「ヒッ!」 「クビヲキッタ! オマエ、クビヲキッタナ!」 「オマエハヒドイ! ヒドイ!」 「ヒドイヤツ!」  人形たちが一斉に喚いた。奇妙な音域の声なので、聞いていると気分が悪くなる。しかもだ。そうこうしているうちに、あの少年は部屋を抜けてどこかに行ってしまった。  苛立ちが募って、レイヴンは声を荒らげた。 「畜生、邪魔なんだよ人形ども!」  足下の人形を蹴飛ばし、ナイフを奪おうと腕に絡まってきた人形を力任せに壁に叩きつけ、連中が怯んだ隙に何とか部屋を飛び出すことに成功したそのとき。  刃を鞘に戻して戸を閉めたら、たくさんの何かが、転がりながらこちらに近づいてくる音がした。  ごろごろごろごろ。  ごろごろごろごろごろごろごろごろ。  ごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろ。 「げっ!」  背筋が寒くなった。  部屋の入り口に、人形の頭が転がりながら迫ってきている。それも大量に。どうやら、レイヴンが下りてきた階段を、人形の頭の大群も転がり落ちてきているようだ。皆一様に笑顔なので、ますます気持ち悪い。白髪の下の顔に冷や汗が滲んだ。  とてもじゃないが留まっていられない。レイヴンは床を蹴って、ほの光る通路を階段とは逆の方向に走り始めた。 「お前ら、俺に何の恨みがある!」  後ろを振り向かないようにしてレイヴンは叫ぶ。すると、背後からこう返ってきた。 「ナグッタ」 「オマエ、ワレワレヲナグッタ」 「オマエ、ウエカラオチテキテ、ワレワレヲフミツケタ」  そこまで聞かされて、はたと思い出す。レイヴンが落ちてきたときに下にあった、あのこぶし大の丸いもの。 「あれ全部人形の頭だったのかよ!」  ひどい屋敷だ。ひどい人形屋敷だ。  後ろがどうなっているか見たくもない。  走った。ただ前方に、脚の動く限り、走った。 (3)  薄暗い通路を走り抜け、どこに出るか分からない階段を上り下りし、建物内を駆けずり回って――ようやく人形と人形の頭の大群から湧き出る気持ち悪い声が聞こえなくなった。  逃げ切れたと考えて問題なさそうだ。レイヴンは石壁に手をついて、呼吸を整える。汗で張り付いた前髪を無造作に払って、ほの光る周囲に視線を飛ばした。  クロウはどこだ。あのガキはどこだ。  そのとき。 「うわぁ!」  悲鳴と共に、誰かが床に倒れ込んだ音が聞こえた。近い。 「よかった、鏡は割れてない。くそっ、あの白髪の三つ編み男のせいで、このボクがこんな目に」  階段のそばで、子供が人形と楕円の鏡を抱えてうずくまっている。人形遣いの少年だ。暗い中動き回ったせいで、ローブの裾を踏んづけたのだろう。  壁に背をつけて気配を殺していると、少年は膝をはたいて立ち上がる。そしてどこへ向かうつもりか、こちらに歩いて近づいてきた。  ちょうどいい。  彼がこちらに気づかず通り過ぎようかというところで、レイヴンはぐいと相手の首の後ろを掴んだ。 「な、お前……!」  ぐっと喉が絞まって、もとより丸く大きな目をさらに驚愕で見開き、少年は狼狽える。  それでも彼は鏡と人形を落とさないように必死で抱えていた。 「あの……人形、たちから、逃げられた、のか……」  右手は首根っこを捕まえたまま。左手は刃を抜いて、少年の顔の前に突きつける。刃物に気づいた少年は、びくりとして震えた。  この子供には少なからぬ苦情があった。こいつのせいで気色悪い人形どもに追われたんだ。後でたっぷり文句言ってやる。  ……でも、今はそれよりも。 「クロウはどこだ。上にいるのか?」 「は、なせ……」 「放したら喋るんだな?」  少年がこくこくと頷く。頭が動いたのを確認して、レイヴンはやっと両の手を引っ込めた。 「お前、やり方が乱暴だぞ。人形たちも怒ってる」 「当然だ。クロウがいないと死ぬんだよ、俺は」  レイヴンが口にしたのは事実だが、少年は何を言っているんだという様子で鼻で笑った。解放された首をさすると、彼は小声でぶつくさ文句を言った後、人形と鏡を床に置いた。鏡の上で手をかざし、魔術言語を口にする。 『連結。虚と虚。形と形』  一瞬だけ鏡が閃光を放ったかと思うと、先程まで何の変哲もなかった鏡が、どこかの部屋を映していた。窓があるので、地上の部屋だろう。 「クロウ……!」  思わず声が出る。鏡に、黒い長い髪の、黒服の若い女が映った。姉のクロウだ。  彼女の無事な姿に安堵したのと同時に、ふと疑問に思ったことがあって、レイヴンは人形遣いの少年に尋ねた。 「おいガキ、こんな風に他の部屋を覗けるならどうして俺に気がつかなかった」  屋敷内を動いている他の人間の姿も見えそうなものなのだが、 「……門の前とあの部屋にしかこの鏡を繋いでないんだよ」  少年はつまらなそうに答えた。そんなことも分からないなんて、と馬鹿にしている口ぶりで。  自分は魔術師でないのだから、詳しいことが分かるわけがないのだが――まあ、理屈はともかく、この鏡が映すのは限られた場所らしい。  鏡にはもう一人映った。クロウの前に、真っ黒なフードと上着で身を覆った、奇妙な人物。  クロウは相手に何かを問うているようだが、こちらには聞こえない。 「ガキんちょ、これはどこだ」 「地上の一階だよ」 「ガキんちょ、その顔の見えない奴は誰なんだ」 「さっきからガキだガキだってうるさいな。ボクの名前はシュライクだ。その悪い頭に叩き込んどけ」  鏡を横から覗きこんで尋ねるレイヴンに、少年はまん丸な目玉を鬱陶しそうに向けた。 「じゃあシュライク。これは誰だ? それにクロウが何を喋っているのか聞こえないぞ」 「……人形だよ。お前には話は聞こえない」  シュライクは突っぱねてきた。この子供本人には聞こえているのかいないのか定かではないが、少なくともレイヴンには、鏡の向こうの会話を聞き取ることはできないらしい。  しかし。 「人形? 人形に相手をさせてるのか?」  レイヴンが聞き返すと、少年は傲慢にふんぞり返った。諸手を広げ、芝居がかった大げさな身振りを混ぜて口上を述べだす。 「ボクは優秀で偉大な人形遣い。将来は世界中に名前を轟かす不世出の大魔術師だ。手始めに錆の谷の魔術師クロウを下し、魔術都市アルアトへ人形の軍勢を従えて攻め入って、権威に驕った古臭い魔術師たちを屈服させてから……」  ……。  あー、はいはい。壮大だな。  ぽかっ。  レイヴンは、少年の頭頂を拳で軽く殴った。 「痛っ!」  シュライクが頭に手を当てて顔を歪めるのも構わず、彼のローブの襟元を掴んでこちらを向かせる。  この子供の誇大妄想はどうでもいいのだが、 「だったらどうしてお前が直接行かずに、離れたところで人形を操ってるんだ。クロウの正面に出るのが怖いのか?」  はっきり疑問を伝えると、人形遣いの少年はむっとして返してきた。 「怖くなんかないぞ」 「じゃあ、どうしてだよ」  一時の間を置いた後、 「……相手が子供だと分かったら、大人はまともに勝負してくれないじゃないか」  シュライクはぼそりと答える。  レイヴンは呆れて、やれやれと頭を掻いた。自意識は強いくせに変なところで気弱な子供だ。それに、あの挑戦状を見た時点で、差出人は子供だと容易に見当がつくのに。  ……そういえば、クロウはまだシュライクと直に会っていないのだったか。 「案内しろ」  戸惑ったシュライクに、レイヴンは要求を繰り返した。 「クロウと人形の部屋に案内しろ。勝負自体はさせてやるから、直接やれ」  クロウも、はぐれの魔術師は放置するとアルアトが怒るだのと言っていた。彼女に会ってもらう理由は十分にある。  シュライクは渋々といった顔で人形と鏡を抱え、階段を上り始めた。  ローブの裾を引きずって上がっていく少年人形遣いの後ろから、レイヴンは歩みの速さを調整して抜かさぬようについて行く。  二人は無言のままうっすら光る階段を上り、通路を歩き、陽の光が入る廊下まで出た。  人形遣いの小さな背を見ながら、レイヴンは思う。  自分の――魔術の心得のない人間の見立てでしかないけれども。  悪いが、腕はクロウには及ばない。 (4)  地下とは違い、屋敷の地上階は細かく模様の織り込まれた敷物が引かれ、白く塗られた調度品が並ぶ。色調の大人しい風景画や異国の陶器の大皿など、子供には不釣り合いなあれこれを眺めながら、こんな屋敷に人形の山と子供一人とはどういうわけだろうかと、レイヴンは首をかしげて少年の後ろを歩いていた。少年――シュライクがちらちらとこちらを振り返るのは、警戒してのことだろう。変なところで気が弱い。  そのうち、一階のとある部屋の前までたどり着いた。シュライクが部屋の戸に近づくと、閉まっていたはずの戸は軋む音とともに独りでに開く。 「クロウ!」 「レイヴン?」  姿が目に入ると同時に、姉弟は互いを呼んだ。  陽の入る部屋の中では、先程鏡で見たとおり、無事な姿のクロウと顔の見えない黒装束が向き合っている。 「連れてきたぞ。この子供が挑戦状の人形遣いだ」  レイヴンは少し身をかがめて、シュライクの肩をぽんと叩く。 「お前がボクに連れて来られたんだろ、白髪男」 「……俺の名前はレイヴンな」  レイヴンは半眼で名乗った。白髪男呼ばわりは流石に嫌だ。 「主人様、この魔術師の相手は私のはず」  今度はフードで顔の見えない黒装束が、主人のシュライクに向けて喋る。  クロウに負けず劣らず全身真っ黒で、中背の成人男性ほどの身長がある。シュライクが言うにはこれも人形らしいが、他の人形に比べて言葉が流暢で、声色も人間に近い。 「事情が変わった。ボクが直接やる」 「……御意」  フードの下の表情は見せぬまま、人形は従順の返答をした。  鏡を壁に立てかけると、裾を床に引きずりながら、シュライクは部屋の中央に入る。主が動くのと同時に、黒装束は部屋の隅に引いた。  元々机と椅子はきちんと並べられていたと思われるが、今はひっくり返って部屋の隅に転がっている。何か魔術を飛ばしていたのだろう。 「男の子、名前は?」  姉が少年に問う。 「シュライクだ。将来は世界に名が知れ渡る大魔術師だ。よく覚えておけ」 「私はクロウ。挑戦状を送るくらいだから、知っているだろうけど」  クロウは耳に黒髪を掻き上げた。黒い瞳が、少年をすっと見据える。 「シュライク。私はあなたの挑戦を受ける」  人形遣いは、前髪の下の丸い目をさらに丸くした。 「いいの? ボクが子供でも」 「構わない。勝負は魔術戦。媒体は自由。相手を降参させるまで。これでいい?」  シュライクが頷くのを確認してから、クロウは部屋の入り口にいる弟のほうを向いた。 「レイヴン……黒の人形でもいい。あなたたちが立ち会い。開始の掛け声」  話を振られ、レイヴンは黒装束のほうをちらと見た。しかし表情が分からない。声も発さない。  ……まあ、自分が言えばいいか。 「始め」  やや気の抜けた声で、レイヴンは宣言した。  正直、引き締める気はあまりなかった。クロウが負けると思えないからだ。  自信があるのか、それとも虚勢か、人形遣いの少年はにやりと笑った。  ぶかぶかな袖を大げさに振り上げ、両の手の平を正面に突きだす。 『覚醒。散開。一円、その合』   シュライクが抱えていた人形、いつの間にか彼についてきていた布や木の人形が一斉に飛びかかり――  クロウは部屋の中央で、微動だにせずにいた。  自ら仕掛けてこない黒い魔女を、幼い人形遣いは危ぶまない。  そのまま人形たちがクロウに届く直前、 『拡散。捕捉。黒、束縛』  魔術言語と共に、クロウの影から、黒く細い糸が大量に伸びた。 「!」  シュライクが息を飲む。  影から伸びた魔術の糸は、クロウの髪の毛のように黒く細く、長い。しかもおびただしい本数で、一本一本が意思を持つかの如く、しゅるしゅると人形たちに絡みついていく。何十体もの人形に、残らず全て。  胴を、首を、手足をからめ捕られ、人形はもがく。けれども黒糸はもがけばもがくほど、絡まっていく。さながら蜘蛛の巣にかかった獲物の虫のように。 「クルシイ……」 「シュジンサマ、タスケテ」 「タスケテ」  黒糸で宙吊り状態の人形たちが、救いを求めて声を絞り出す。 「降参はない?」  捕縛した人形の渦の中央から、クロウが淡々と確認する。しかし、少年の前髪の下の目はまだぎらぎらと炎を燃やしていた。 『飛来。旋回、薙ぎ――』  戦意の消えないシュライクが、別の魔術を発動させようと魔術言語を唱えかけたとき―― 「残念」  クロウは即座に魔術を編んだ。魔術言語と共に、彼女の手の近くにあった人形はさらさらと粉になっていく。シュライクは魔術言語を発するのを止め、呆然と人形が粉になる様を見ていた。 「あ……」 「次は、どの人形」  淡々と、黒い魔女は言う。黒い瞳で人形たちに視線を遣り、まだ人形を粉に変える意思があることを示す。  それがとどめだった。 「イヤ、シュジンサマ」 「キエタクナイ」 「アンナフウニ、ナリタクナイ。タスケテ!」 「イヤ!」  人形たちが狂ったように喚く。部屋は奇怪な声の大合唱で溢れ、傍で聞かされるレイヴンは辟易した。頭が痛い。 「もういい、やめて、ボクの負けだ! 魔術師クロウ、ボクの負けだ! だからやめろ!」  耐えきれなくなったのだろう。力なく床に膝をついて、少年は甲高い叫び声を上げる。  声に応じ、黒糸はするするとクロウの足元の影に引っ込んでいく。  黒糸から解放された人形はぼとぼとと床に落ち、それ以上動かなかった。   部屋が静かになった後。  シュライクは他の人形たちに囲まれて、かき集めた粉を布の袋に入れていた。この粉を綿代わりに詰めた人形を作るらしい。 「シュライク、あなたは魔術都市アルアトにいたことは?」  クロウが尋ねる。少年は首を横に振った。 「じゃあ、その魔術はどこで」 「親が魔術師だった。でも、死んじゃった。ボクが親戚にもらわれそうになったとき、よく知らない人が来た。その人に魔術の使い方を教えてもらった。それからあいつと、この家をもらったんだ」  喋りながら、シュライクは黒装束を指差した。  一つだけ出来の違う人形があるのはそういうことかと、レイヴンは納得しかけて。 「……ってちょっと待て。もらった人形とクロウを戦わせようとしたのか?」  他人のもので戦うのはあまり決闘や挑戦という印象でないのだが、 「制作者が違っても、術者はボクだからいいんだよ」  シュライクはさらりと言う。  そういうものなのだろうか。クロウを横目で見たが、彼女は違和感を覚えている風ではない。当人たちが納得しているなら踏み入ることではないのだろうと、割り切ることにした。 (5)  シュライクの頭頂で結わえられた箒のような髪を見ながら、 「両親ともに魔術師、ね」  レイヴンは繰り返した。両親は魔術師で、既に他界。自分たち姉弟と同じなんだなと思っていると、 「知らないのか? 魔術師同士で結婚したら子供は魔術師になるんだぞ」  無知な大人に知識を教示してやろうとでも考えたか、シュライクが得意げに口を挟んできた。  内心の複雑な感情を出さないようにして、レイヴンは言った。 「……大抵の場合はな」  何事にも例外はある。自分がそれだ。  姉と同じように素質を持って生まれてくることを、親もおそらくは期待していただろう。  いっそ拾われた子であれば素質なしの体にも納得出来たものを、間違いなく両親が同じだというのだから、なおのこと血筋を卑屈に感じる羽目になった。  父も母も姉も持ちえた力が、どうして自分だけないのかと。 「レイヴン……」 「クロウ、もういいんだ」  こちらの気持ちを察したのだろう。姉は表情を曇らせた。  けれどどうにもならないことだ。クロウが気にしないように、レイヴンは別の話を振った。 「なあ、子供を拾って魔術を教えて、家までくれてやるって……単なる善意だと思うか?」  疑問だった。シュライクが受けたのは、何の意図もないにしては大きすぎる援助だ。 「分からない。この子の件と併せて、アルアトに連絡する」  姉は無難なことを答えて、人形遣いの顔を見た。 「シュライク。あなたのことをアルアトに報告する。筋はいいから、きちんとした教育を受けることを勧める。アルアトは子供から育てるのが好き。きっと優秀な魔術師になれる」  優秀な魔術師になれるという言葉に、シュライクは一瞬、前髪の下の目を輝かせた。しかし、すぐに思いきれない様子になって声を落とす。 「でもそれだと、ここの人形たちが」  すると周囲の人形たちは起き上がって、喋り出した。 「主人様、我らなら大丈夫。ここでいつまでも、お帰りをお待ちしている」 「シュジンサマ、イナクナッチャウノ」 「オデカケスルダケ。シュジンサマ、カエッテクル」  レイヴンにとっては、黒装束はともかく、他の人形たちの声は耳障りで全く慣れない。けれど。 「みんな……」  主のシュライクには、何よりも響く声なのだろう。  集まった人形たちを、短く細い腕で必死に抱きしめていた。  □  冬の寒さの合間。暖かい日の光が差し込む昼間。  姉弟が人形遣いの森から錆の谷に戻る道を歩いていたとき。  農作業用の小屋の前で、急に疲れを感じたレイヴンが、小屋の軒下で姉にもたれかかった。 「疲れた。少し、休みたい」 「レイヴン……重い」  クロウの体に寄りかかって、レイヴンはそのままずるずると倒れ込んでいく。  圧し掛かる重さのせいで起き上がれなくなったクロウが、少し困惑した表情で弟の顔を真上から覗きこんでいた。 「ごめん、眠いんだ」  薬に頼らずに眠気を感じたのは何日ぶりだろう。こんなに心地よくて安心する感覚だったろうか。  自然に瞼が重くなって、完全に眠りに落ちる直前。  姉の「おやすみ」という囁きの後に、額に唇が触れた感触があった。  (人形遣いの住まう家・了) ■[chapter:4 紅の魔女] (1)  レイヴンにとって、全く不可解なものがこの世に二つあった。  一つ。魔術。  二つ。女の友情。  まだまだ寒いながらも春の近づいてきた頃。晴れた日の夕に、クロウとレイヴンは川原の温泉に浸かっていた。  レイヴンの右手には山に沈んでいく赤い日。左手には湯に浸かる裸身の姉。   錆の谷の風景と姉を堪能しながら風呂に入っているのは、眠れない自分には何より気分がいい時間だった。  と、背を預けている石の向こうから、誰かががらがらと川原の石の上を歩く音がする。誰が来たんだろうか、いつもの刃は服のそばにあったな、と考えを巡らせていると、低音域の優美な女声が聞こえてきた。 「クロウ、そこにいる?」 「紅(くれない)か?」  聞き覚えのある声に、レイヴンは問い返した。 「そうよ、私。温泉にいるのはクロウの弟だけ?」 「紅。私もいる」  相手とは対照的な高い声で、クロウが答える。  向こう側の声はあらあらと笑って、用件を言った。 「姉弟仲睦まじいところをごめんなさいね。薬の材料と、器材を運んできたわ」  客人は、その外見から俗に「紅の魔女」と呼ばれている女だ。本名はピジョンブラッドというのだが、姉弟は俗称をさらに縮めて呼んでいる。  年は確か、クロウより一、二歳上。黒に近い茶の髪を後頭部で結い上げ、体は仕立てのいい赤い衣服を身に着けている。さらに金銀細工の装身具で飾った姿は、魔術師というより上流階級の婦人のそれだ。魔術都市アルアトの名門の生まれだと聞く。  この豪奢な美女と、顔立ちは綺麗でも地味な格好をしたがる姉とが近しい付き合いがあるのはどういうわけなのか、レイヴンには理解しづらいものがあった。  女の友情はよく分からない。  レイヴンがいつもの女好きで紅の魔女を露天風呂に誘って、クロウに怒られた後。  風呂から上がって彼女を家に招き入れ、荷物を片付けると、 「連絡くれた人形遣いの男の子の件だけど、アルアトが預かることにしたわ」 「ありがとう、助かる」 「いいのよ。子供の魔術師は上も欲しがるから。教えるなら早いうちからのほうが覚えがいいもの」  姉弟の家の中では比較的片付いた区画である台所の卓で、紅持参の干した果物をつまみながら魔女二人は話に興じ始めた。紅に同行していた荷物持ちは、玄関で待たせている。  昔話に花が咲いている中に、レイヴンがカップに水を注いで持って行くと、紅が困ったように笑って言った。 「クロウ、まだ学生時代のことを根に持ってるのね」 「……何のことだ?」  姉のクロウは子供っぽく頬をふくらませていた。 「昔、蛙を探して捕まえた。使い魔にしようと思ってた。それを紅が」 「ああ、取られたとか言ってたな」  クロウと紅のいきさつは、聞いたことがある気がする。 「私、ちゃんとクロウにもらってもいいかって確認したわよ。なのに」 「飼うだけだと思ってた。解剖するなんて思わない」 「……」  レイヴンは閉口した。さすがに何と返していいものか迷う。そういえば、紅が腑分けするのは蛙から死刑囚まで幅広く、だったか。容姿も地位も兼ね備えた妙齢の女にしては、血なまぐさいことを好むものだと思う。お世辞にもいい趣味とは言えない。  カップの水に少し口をつけて、未だむくれたクロウは続ける。 「衝撃だった。あれ以来、私は使い魔を持たない」  自分が飼うつもりだった生き物を殺されてしまったら、まあ、そりゃ、衝撃的だろう。  しかしそんな目に遭ってなお付き合いがあるのだから、女は不可解なものだ。  気がつくと、いつの間にか二人の話は研究者時代のことに移行している。  干し果物を口にしながら話に花を咲かせる魔女たちの横で、レイヴンはときどき適当な相槌を打ちながら、二つの美女の顔を眺めていた。  そんなとき、姉のクロウが、思い出したように旧友に問うた。 「紅、荷物ありがとう。でも使用人か使い魔に届けさせれば済む。わざわざ錆の谷まで来るなんて、何かあったの」 「クロウの顔を見に来たのと、奥の温泉に行こうと思って」  錆の谷には、姉弟が普段使う露天風呂の他に鉄臭く赤褐色の湯が湧く温泉がある。錆の谷という地名は、奥の温泉に由来するものだ。 「研究用に温泉水が欲しいのよ。せっかく来たんだから入浴してもいいかもしれないわね」  紅はにっこりとして、クロウの黒い瞳を見据える。 「それで、道案内にクロウの弟を借りたいわ」 「!」  クロウはがたりと音を立てて椅子から立ち上がる。顔を青くしてふるふると首を横に振り、横にいたレイヴンの上着の袖をぎゅっと掴んだ。 「レイヴンは渡さない」  向かい合う紅はけらけらと笑って、こちらに視線を投げかけてきた。 「ちょっと行って帰ってくるだけよ。ねえ、クロウの弟」 「それ以上を期待していいなら喜ん――」  釣られたレイヴンがつい下心を口に出しかけて、しかし止まった。自分の袖を掴んでいるクロウの手に、さらに力がこもったからだ。体質上痛くはないが、強く押される感覚はある。  ……まずい。クロウの機嫌が悪い。 「紅。私も行く」  黙り込んだ弟の前で、クロウは強い警戒を孕んだ申し出をするが、 「ごめんねクロウ。二人で話したいことがあるのよ」  卓上のカップを長い指でつつき、紅の魔女は断りを口にして微笑んだ。笑みからは、考えを曲げる気がないのが読み取れる。 「駄目?」 「ええ」  一呼吸の間を置いた後、クロウは警戒の解けない顔で、二人に尋ねる。 「……お互い、何もしない?」 「当然よ。ね?」  紅が自分に向かって目くばせする。  何もしてはいけないのは、自分の本音では残念なのだが――レイヴンは頷いた。これ以上姉の機嫌を損ねるのも、逆に紅の機嫌を損ねるのもよろしくない。  弟の同意を確認して、クロウはため息の後、レイヴンと紅が奥の温泉に向かうのを渋々承諾した。    女二人が喋っているうちに、周囲は夜の帳が下りている。雪もないし、春が近づいてきてはいるが、やはり日没後は冷える。レイヴンは少し戸を開けてみた。屋内に入り込む空気が冷たい。  奥の温泉は夜が明けてからのほうがいいと思うのだが、当の紅は 「用を済ますのは早いうちがいいのよ」  と、聞かない。  紅に同行してきた荷物持ちの顔には、諦念が浮かんでいた。言い出したら聞かない主の性格をよく分かっているのだろう。  紅の魔女ピジョンブラッドの魔術の腕前はレイヴンも知っている。万一山中で狼藉者に出くわしたとしても、乱暴を働くのは至難だろうが、それでも妙齢の女性にしては不用心なものだ。  だからお前を連れて行くのだと言われれば、一応の道理は通るのかもしれないが。  レイヴンは自分の愛用の二振りを腰に吊るしながら、玄関で待っている紅を改めて見た。彼女の華美な衣服は、山歩きに向く格好では決してない。 「荷物持ちは置いていくのか」  壁にもたれかかっている荷物持ちが気になったので、紅に尋ねる。彼女は頷いた。 「ここに来るまでに疲れてるから休ませてあげて。ね、クロウ」 「……分かった」  クロウは複雑な面持ちで了承する。  姉は、言いたいことが山ほどあるにもかかわらず押し殺している。  それを承知で、レイヴンは紅と共に家を出て、奥の温泉の湧く夜の山に向かった。 (2)  川原をしばらく歩いた後、二人は山道の入り口に着く。  春に備えて少しだけ芽を出した木々の枝を避けつつ、魔光灯のランプを手に、土と石でがたがたする夜道を進んだ。魔光灯は魔術の因子に反応する明かりなので、ランプを持つのは紅だ。  暗い中、裾の長い衣服で足場の不安定な場所を歩くものだから、彼女はときどきふらつく。それを慌てて支えるのが、今のレイヴンの役目の一つだった。他の役目は、もちろん道案内。 「紅」  冷え冷えする夜の空気の中、レイヴンは白い息を吐いて紅の魔女に呼びかける。 「なあに?」 「荷物持ちを置いてきたのは、クロウを家から出さないためか? そんなにクロウなしで俺と話がしたかったのか」 「まあね。あなたたち姉弟っていっつも一緒だもの」 「逢引きのお誘いなら、そろそろ色っぽい話をしてくれてもいいんだが」  わずかな期待を込めて話を振ってみるが、 「クロウに止められてるでしょ」  紅はさらりと拒んだ。  ……どうやら本当にそう思っているようだ。面白味がないなと内心で舌打ちをして、山道をさらに数歩進んだところで、レイヴンの頭にふと疑問が湧いた。  紅の魔女ピジョンブラッドの趣味は解剖。対象は、蛙から死刑囚まで。  死刑囚……つまり人間も、範囲内。  続きに家での姉の様子を思い出す。彼女は怒りで赤くなっていたのではなく、青ざめていた。  姉の飼った蛙は解剖された。  ではひょっとして、自分も解剖……? 「……」  恐ろしい考えに行きついて、レイヴンは今更ながらに寒気がした。自然、表情がこわばる。  この魔術師を相手に戦闘行為をして、勝てる自信はない。 「? 急に立ち止まってどうしたのかしら」  数歩前に進んでいた紅が、足の止まったこちらを訝しんで振り返った。レイヴンの手は自然と、腰に吊った刃の柄に触れている。この女に勝てる自信はないが、殺される前に逃げ出すのなら一縷の望みはあるだろう。  「単刀直入に聞く。紅、俺を殺して解体したいのか」  数年前、白髪化して体の感覚が狂った時に、興味深い症例だと言われたのを覚えている。自分からすれば苦悩の根源でも、魔術師から見れば興味の対象だ。  それに、クロウがいたら衝突は免れないが、今ここにはいない。 「やあね。何を怖がってるのかと思ったら、そんなこと? さすがにそこまでしないわ」  紅は頓狂で馬鹿馬鹿しい考えだと思ったらしい。けらけら笑って、ランプを手に近づいてくる。魔光灯の緑の光に照らされて、美しい顔がいっそう魔性を帯びて見えた。彼女の宝石のような青い目が、ぞっとするような色気を醸している。 「もちろん、あなたに何かあったとき、私に遺体を提供してくれると生前に約束してくれるのなら――」  互いの鼻先が触れそうなほどに顔を寄せて、魔女は妖艶に口元をほころばせた。 「喜んでいただくけど」 「……」 「献体して欲しいとは思うけど、今ここで積極的にあなたを殺す理由はないわよ。そんなことしたらクロウが怒るどころじゃないわ」  喋りながら顔を遠ざけ、紅は首を横に振る。おどけたような態度だが、嘘ではなさそうだった。だとしても、死体が欲しいと言われるのは複雑だが。 「ねちっこい考えをするもんだな、アルアトの名門魔術師ってのは」  レイヴンはげんなりした声を吐いた。殺すのが目的でないなら、俺は本当にただの道案内で引っ張り出されたのか。いやそれだと、クロウと自分を引き剥がす理由がない。  ではどうして?  レイヴンが紅に尋ねようとして、 「魔術師?」  山中の木々の間から、復唱する低い声が遮った。 「誰だ」 「いけねえ。つい声が出ちまった」  隠れ続けるのは不利と考えたのだろう。レイヴンの問いかけに応じるように、がさがさと音を立てて声の主は木々の間から道に出て来る。  暗くて人相はあまりよく見えないが、今しがたの声と、体格からするに男。背は自分と同じくらいだが、横は相手のほうが幅がある。年は相手のほうが一回りは上か。手入れしていない様子の髭が顎を覆っているようだ。  印象は、貧民。食うために他者から奪うことを厭わない、下層の人間。  男はへへと下品に笑った。 「その明かり……魔術師か? こんな夜に男と二人で何をしたかったのかは聞かねえが、別嬪だな。予定よりちいと早いが、今死んでもらうか」  魔光灯の光を見て、紅が魔術師だと判断したのだろう。男は上着の下から金属の刃を抜いた。長さはレイヴンの得物の倍近い、両刃の短剣だ。 「あらやだ。魔術師狩り? 久しぶりに見たわ」  紅はゆるりと返す。生まれも育ちもアルアトの魔術師らしい、呑気な言葉だった。魔術都市アルアトは魔術師の教育機関や居住区の警備が細かく、魔術師狩りがそう簡単に入れる場所ではない。  男は魔術師狩りであることを否定しなかった。明かりに照らされた紅の豪奢な衣服を憎たらしげに眺めて、ぺっと道に唾を吐くと、短剣の先を女に向ける。 「お前が錆の谷の魔術師だな。真夜中に家を襲うつもりだったが、こんなところで出会うとはよ」  違う。  レイヴンは思ったが、男の間違いを正すべきか迷った隙に、 「そうよ。私が錆の谷の魔術師。あなたは魔術師狩りなのね」  ……紅が、堂々と嘘をついた。 「どういうことだ、紅」  紅の服を掴み、声を潜めてレイヴンが尋ねる。紅は平然としていた。 「ここで始末すれば、クロウには危害が及ばないでしょう?」  それはそうだ。姉を襲うつもりでいる魔術師狩りをこのまま見逃す気はない。だが―― 「何をひそひそ話してるんだ。髪の白い野郎は魔術師じゃなさそうだが、邪魔するならお前も殺すぞ」  苛立った魔術師狩りが、威嚇するように短剣で空を横に切った。そのまま数歩前進し、ぎらぎらした眼差しで標的たる紅を睨みつける。 「守ってくれるでしょう? 可愛い年下の男に守られるなんて、結構いい立場よね、私」  白い髪の被さる耳元で、状況から考えれば不謹慎なほど楽しげに、紅が囁いた。  優美な笑みを浮かべる紅を庇う形で、レイヴンは右腰の刃の柄に手を伸ばす。  紅を放置できない自分の性分が憎い。  もしここで死んだら、喜んで自分を解剖するだろう女を守るなんて。  土を蹴って距離を縮め、紅に向かって短剣で刺突を繰り出してきた魔術師狩り。レイヴンはすぐさま、紅を突き飛ばして自分の刃を逆手で抜き、止めた。固い金属のぶつかる音が夜の山中に響く。 「ほう、得物持ちか。若造、お前やっぱり邪魔するんだな」  至近で見る魔術師狩りの目は、底深い憎悪で淀んでいた。 「俺の前で女が死ぬのは嫌なんだよ」  レイヴンが臆さず答える。目の前で女が死ぬのは嫌だ。たとえ自分を解剖したがる女であってもだ。  相手は刃先をずらして、ナイフを握るこちらの右手指を斬ろうとする。それならばと短剣の刃先をかわしてそのまま相手の上腕を狙ったが、向こうの反応のほうが早い。またも刃と刃が衝突し、レイヴンは心の中で舌打ちをした。  紅は自分の背後に移動したようだ。  相手の狙いは魔術師である紅で、自分は邪魔だから攻撃されるに過ぎないのだが、紅が魔術を使う気がなさそうなのが困る。彼女自身が余程切羽詰まらない限り、支援は期待できそうにない。  歯噛みしながら、レイヴンは柄をぐっと握った。   (3)  握った柄は、左側のもの。  左腰の刃を抜くとほぼ同時に、右脚で男の脚を横に回し蹴る。相手はわずかながらも体勢を崩しかけたが、短剣はこちらに向けて動いた。男がよろめいた隙を狙って、喉に迫るレイヴンの左の刃は、短剣の鍔で押さえられる。  短剣を握る男の手を、レイヴンは右の刃を上に動かして素早く斬った。続けざまに、今度は正面から男の脚を蹴る。 「うぐっ!」  痛みに呻いて、男は後方に下がる。確かに斬った感覚はあったし、手から血が垂れているようだが、それでも相手は短剣を落としていない。  ちらちらと周囲の闇に視線を遣るのは、紅を探しているのだろう。男の、魔術師を狩るという目的からすれば当然だ。自分は魔術師ではないから、戦っていても益がない。 「くそ、あの女……どこに行きやがった」  魔術師狩りの男が憎々しげに毒づく。  魔光灯のランプはレイヴンの背後に置かれたまま、光を弱めている。微弱ながらも明かりは消えないので、遠くに逃げたわけではないようだ。魔術でこちらを支援する気がないなら、下手にうろうろされるよりは、いっそ逃げてくれたほうがいいのだが――  そのとき。木々の間の闇に、ちらと赤い衣服が浮かんだ。 「! 魔術師の女、殺してやる!」  気づいた男が咄嗟に吠えた。レイヴンを放って、闇に浮かぶ赤に特攻する。 「しまった、紅!」  レイヴンは一足遅く、男を追う。  闇から姿を見せた紅は、ただ立っていた。罵声にも特攻してくる剣先にも動じることなく、赤い唇にすっと弧を描かせる。 『流動。遮断。赤、業と終焉』  甘い声音の魔術言語と共に、紅の魔女の魔術は、発動した。  男の手から滴る血液が、うねうねと独りでに動く。赤いそれはするすると空中に上り、男の鼻から体内に入った。鼻から喉に達したのか、男は目をぐわりと見開く。 「人間一人を窒息させる水の量って、そんなにいらないのよね」  紅の言葉が、淡白に、残酷に空気を伝わる。  男は短剣を取り落とし喉を押さえた。喉に流れた血が呼吸を妨げているのか、口を大きく開けて悶える。やがて地に膝をつき、頭を垂らす。手は震え、節くれだった指が下の土を掻いた。  一歩。一歩。紅はゆっくり男に近づく。憎い相手がそばに来たというのに、男は耐えがたい苦しみのために、落とした短剣を拾うことも、拳を振り上げることも叶わない。 「最期に一つ教えたげる。ごめんなさいね、私、嘘をついたわ。あなたの探してた錆の谷の魔術師じゃないのよ」  言葉は男の耳に届いたのだろう。彼は何かを言いたげに頭を上げ、懸命にもがく。けれども、ついに意味のある声にはならなかった。  刃の汚れを拭って鞘に納めると、レイヴンは安堵の息を吐いた。 「助かった。紅、怪我はないか?」 「大丈夫よ」  足下では、魔術師狩りがうつ伏せのまま動かなくなっている。ランプを手にした紅の魔女は、この死体を見下ろしてつぶさに観察していた。 「綺麗な顔のくせにいい度胸してるよな、紅は」  彼女の横から、うすら寒い表情のレイヴンが口を動かす。もっとも、敵対者に対する冷徹ぶりは、姉のクロウも似たようなものではあるが。つくづく、魔術師は敵に回したくない。 「当然よ。こんなのが隠れてると分かったら、不安でクロウと一緒に寝ていられないわ……ああ、ごめんなさい。あなたに当てこすりを言うつもりはなかったの」  紅は詫びた。眠れない体質に配慮がなかったと考えたのだろう。当のレイヴンはさほど気にせず、「別にいい」と軽く答えた。その後、足元を見て顎をしゃくる。一つ疑問が湧いたのだ。  今、ここには死体がある。 「……ひょっとして、これを解剖するのか?」  まさかここで始めたりしないだろうか、得物を貸せと言われるのではないか――そう思ったが、魔女は残念そうに首を横に振った。 「クロウの家に帰れば道具はあるでしょうけど……さすがにこれをあなたが下まで運ぶのは嫌でしょう? 私の荷物持ちに頼んでも、泣かれそうよ。止めておくわ」    レイヴンと紅の魔女の二人は、夜の山道をさらに歩く。  目当ての温泉に行くほうが先だと紅が主張するので、魔術師狩りの死体は後々、クロウに事情を話してから片づけることにした。 「魔術師を殺したって、さっきの男は何も得しないと思うのよね」  細い山道を進みつつ、紅が理解しがたいとばかりにこぼした。魔術師狩りというのは、魔術師を狙って襲撃する人間の総称なので、集団の場合もあるし、個人の場合もある。動機も一様ではない。 「あいつの場合は貧乏からの逆恨みだろうな」  レイヴンは言う。紅の身に着けている衣服を見る目が、ことさら憎悪を醸していたのを覚えている。  横で歩く紅は口を尖らせた。 「魔術師だからって楽して生きてるわけじゃないのよ? 結果を出さないと減給されるし、研究費だって回って来ないわ。上のご老人方はうるさいし……」 「それは、さっきの奴にはどうでもいいことだな……さあ、着いた」  レイヴンは話を切って、前方に首を動かす。奥の温泉はすぐそこだ。  錆の谷の奥には、地名の由来となった赤褐色の温泉が湧いている。直径がレイヴンの身長の倍くらいの、小さな円形の泉だ。背の低い木々に囲まれていて所在はあまり目立たない。昔、谷に住んでいた人間が温泉が湧いているのに気づいて石で囲ったのだそうだ。石は温泉水の成分が付着して変色している。温泉のそばは、夜でもやはり温かい。  湯気の上がる中、紅は温泉の近くに寄って温泉水の採取を始めた。ランプの明かりを頼りにして、紙に温泉水を垂らしたり、複数の小瓶に汲んだり、所感を小さな紙に書き留めたり、レイヴンにはよく分からない作業にせっせと励んでいる。手伝える雰囲気でもない。  退屈を持て余しそうなので、レイヴンは直接彼女に聞いてみた。 「入らないのか?」 「入浴を期待してくれてたんでしょうけど、やっぱり止めておくわ」  紅は背を向けたままでひらひらと手を振った。  つまらない話だ。触るのはともかくとしても、目の保養くらいさせてくれてもいいだろうに。 「俺は紅を庇って戦ったんだけどな。一緒に入るくらいのお返しがあってもいいんじゃないか?」  彼女の背から不平を口にしたが、 「最初から何もしない約束だったでしょう? 後でクロウが怒るわよ」  作業中の紅から返ってくるのはつれない言葉。  俺は損するばっかりか。後頭部の白髪を軽く掻いて、レイヴンは苦い顔で別件を口にする。 「じゃあ答えてくれ。俺をクロウから離して、その上でしたい話ってのは何だったんだ」  紅は手を止め、こちらに向き直って、言った。 「クロウを返して」 「返す?」 「出来のいい魔術師を、出来の悪い弟が奪った――クロウの上司や知り合いは、みんなそう思ってるわ」 「……お前もか、紅」 「あの子、アルアトでもっと出世できるわよ。こんな辺鄙なところに引きこもってるなんて勿体ないわ」  魔女の赤い唇は、肯定も否定もせずに、別のことを紡いだ。しかし、喋りながらこちらを厳しく見据える魔女の双眸は、暗に、お前さえいなければと告げている。 「それに、クロウは自分じゃもてないって思い込んでたけど、私の親戚だとか知り合いの若い男なら紹介したのに」 「……」  黒に近い茶の前髪を掻き上げて、紅の魔女は続けた。 「魔術師でもない男、それも実の弟じゃ、一緒にいたって何にもならないわ」  魔術師で、血縁でなく、健康な男ならともかく、と。辛辣さを増した口ぶりで。  大抵の場合、魔術師同士で結婚すると子供は魔術師になる。  ゆえに次代の人数を確保するために、魔術都市アルアトは魔術師同士の結婚を推奨している。  紅も、そうやって代を重ねた家の生まれだと聞いた。 「クロウの弟。自分でも分かってるでしょう。あなたの歪んだ体はもう治らない。あなたに付き合っていたら、クロウの人生が犠牲になってしまう」  二人の視線が真っ向から衝突する中、固く揺るがぬ宣告の響きを宿した声で、紅の魔女は告げる。 「クロウを返して。私はそれを言いに来たの」   (4)  温泉での作業を済ませると、紅の魔女とレイヴンは口数少なに山道を下りた。  二人がクロウの家に戻ったときには、もう夜明け前だった。うとうとしながらも眠らずに待っていたのか、瞼のとろんとしたクロウが、ほっとした様子で「おかえり」と迎え入れる。姉に抱きつかれたレイヴンが玄関の周囲を見遣ると、棚の横で荷物持ちが毛布にくるまって眠っていた。  錆の谷での用事は済んだのだろう、早々に帰還したい様子の紅が出立前に仮眠を取りたいと言うので、姉は自分たちの寝室に彼女を入れ……その間、レイヴンは寝室出入り禁止を言い渡された。  「レイヴン、元気がない」  早朝の台所の食卓で、カップの水を飲みながら、クロウは弟の顔を気にした。 「元々、こんなもんだろ」  向かいの席のレイヴンは、無愛想に答える。小さな器に入った、味の分からない液状の薬をちびちびと口に入れながらだ。食欲がないので、まともな食べ物を口にする気になれない。 「違う。紅と何かあったの」 「何もない。何もしない約束だっただろ」 「そうだけど……」  クロウは、紅が休んでいる寝室の方向を一瞥する。それきり、黙ってしまった。  □  その日の午前のうちに、紅と荷物持ちは帰路に着いた。  紅は寝室から出てくるなり、まだ眠たげだった荷物持ちを叩き起こした。晴れてるから早く帰らなきゃ、研究室にやること溜まってるのよ、親戚付き合い面倒だわ、クロウともっとお喋りしていたいけど等々と愚痴を一通り吐いて、早々に荷物をまとめると、慌ただしく錆の谷を出て行った。  ……魔術師狩りの体の処分は、クロウに押し付ける形で。趣味の解剖は諦めたらしい。  春の訪れが近いことを感じさせる、柔らかな風が昼の錆の谷に吹く。山の木々は枝先から芽を出し、暖かな日差しを待ち望んでいる。近いうちに草木は色とりどりの花を咲かせ、鳥や虫が谷を飛び交うようになるだろう。 「レイヴン」  家の玄関の前で、長く黒い髪を風になびかせて、黒い姉は白い弟に再び問うた。 「紅は帰った。もう気を遣わなくていい。何があったのか教えて」 「……紅は、クロウにアルアトに帰ってきて欲しいとさ」  レイヴンは少しだけ思考を巡らせ、昨日紅から聞かされた険のある言葉を、かなり簡略して伝えた。言われたことをそのまま姉にぶつけるのは気が引けた。 「帰らない。私はレイヴンとここにいる。鳥かごのようなアルアトに戻るつもりはない」  きっぱり拒むクロウに、レイヴンは苦笑した。我が姉ながら強情なものだ。クロウは錆の谷に来てからずっと、帰らないの一点張りだ。 「仕事の付き合いとか、出世とかあっただろ。全部投げ出して、後悔してないのか」 「後悔なんてしてない。私はレイヴンと別れるほうが嫌」  クロウは弟の上着の袖を子供のようにきゅっと握り、 「レイヴンは昨夜、紅に何かきついことを言われたんだと思う。でも、気にしなくていい」  安心させるように柔らかく微笑みかける。  気にしていないと言ったら嘘になるのだが、レイヴンは隠すことにした。 「クロウ、紅とは友達か?」 「そう。友達。どうして今更、そんなことを聞くの」 「いや、何となく」  友達――紅の魔女は、自分たち姉弟の生活を快く思ってはいない。今後の状況によっては、強引な手段を用いてでもクロウを連れ戻そうとするかもしれない。  そのことを、多分クロウ本人も勘付いている。  にもかかわらず、友達だという。  女は、よく分からない。  (紅の魔女・了) ■[chapter:5 黒と白] (1)  三年前まで、俺の髪は黒くて、三つに編めるほど伸びてもいなかった。食欲も睡眠欲も、痛覚味覚も普通にあって、魔術の素質を持たない、ただの人間だった。  錆の谷からずっと西に、グレインロットという都市がある。この街の端にある、汚れの目立つ料理屋の、隅の席。 「レイヴン。お前はもう来なくていい」  三年前の俺は唐突に仕事を切られた。  机の上には酒の器が二つと、何枚かの硬貨。酒は俺と雇い主の分。金は手切れ金だ。 「どういうことだよ、親父さん。俺の腕が悪いのか?」 「腕は悪かねえさ。よくやってくれたよ」 「だったら、どうして」  納得できずに、俺は聞き返す。雇い主であり、面倒をよく見てくれた中年の男は、酒をぐいと喉に流し込むと赤い鼻を掻いた。 「お前は悪人に向いてねえ。だから昼間の店に呼んだ。これでお別れだ」  肩を震わせて店を出ると、日は傾いていた。乾いた砂が春先の風で宙に舞い、街路の通行人や近くの家に被さっていく。自分の口にも砂が入ったので、俺は唾と一緒に吐き捨てた。  褒められた稼ぎでなかろうと、食えるだけはましだと思っていた。  けれども、みじめにもそれさえ失った。  俺が悪人に向いていないという、漠然とした理由で。  両親は二人とも魔術師だったが、俺たち姉弟がまだ子供のころに死んだ。たまたま呼ばれて出かけた先で、運悪く魔術師狩りに遭ったのだそうだ。簡素に済まされた葬式の後、残された俺とクロウは、伯父の家に引き取られることになった。  しかし困ったことに、伯父――父親の兄だ――と生前の父親は、あまり仲がよくなかった。引き取られて早々に、クロウは魔術都市アルアトの学校に送られ、残った俺もあまり伯父夫婦の家に馴染めなかった。会話はほとんどしなかったし、食事もよく抜きにされた。俺には魔術の素質がなかったから、余計に厄介者に見えていたんだろう。  こんなところにいたくない。その一心で、十歳になるかならないかで伯父の家を離れてグレインロットの街に出たが――  何の後見もない小僧には、ろくな仕事がない。路上の果物売り、倉庫の見張り、建材運びや掃除を転々として、気がついたときには夜は他の子供と空き家で寝泊まりし、昼はその日の仕事を探して路上をうろうろする、貧しい子供の労働者になっていた。  ある日、親父さんに出会って、仕事を回してもらうようになって、金回りはいくらか好転した。回ってきた仕事は、歓楽街の店の女から金を徴収したり、区域内で勝手に商売を始めた奴や、物わかりの悪い客を時には脅してでも追い帰すこと。今も使っているナイフの扱いを覚えたのもこのころで、俺は順当に真っ当な世界から転がり落ちていた。  ……切られたのは、その生き方に慣れたころ。十七になったばかりのときだった。  さて、どうしたもんか。  生きている限り腹は減る。さっきの店でもらった小銭で、どれだけもつか。宿を借り、仕事を探して、生活していく道筋を立てないといけないが、今更堅気に戻れるのか。悪人には向いていないと言われたが、向き不向きなど関係なく、食えないなら悪事に手を染めるしかないじゃないか。  伯父を頼ることは考えなかった。伯父夫婦は魔術で作った薬を売って生活していて、裕福でこそないが、生活に事欠くほど貧しくもない。だが、子供のころの記憶は足を遠のかせる。伯父の家に帰ったところで、仮にあてがあっても、働き口の紹介などしてくれないだろう。  魔術。  両親も姉も、叔父夫婦も魔術師だ。それなのに俺は違った。  あの力さえあれば、俺は貧乏に喘ぐことはなかったんじゃないか?  身を崩すこともなかったんじゃないか?  自分の境遇を恨んで歯噛みしたときだ。不意に、横から声がかかった。 「魔術に、憧れませんか」  年は三十から四十。痩せて背の低い小男だった。禿頭で、丸眼鏡をかけている。黒っぽい上着の袖から見える左手の甲に、蝙蝠の入れ墨があった。 「……誰だよ、あんた」  胡乱げに、俺は尋ねた。相手は眼鏡の奥で目を細める。 「私は名乗れません。名前は捨てたからです。ですが、これにちなんで"コウモリ"と呼ぶ方が多いですねえ」  左手の甲をこちらに見せながら、小男は言った。あだ名のようなものだろうか。 「大きな声では言えませんが、魔術師になれる薬があるんです」  なるほど、くだらないものを売りつけて、俺から金をむしり取ろうって魂胆か。俺はせせら笑った。 「冗談だろ。あれは生まれつきのもんだ」 「そうそう、それです。魔術師に生まれなかったら、本当に生涯魔術師になれないものか、知り合いが研究をしていましてね。どうでしょうか、一つ試してみませんか」 「胡散臭いな。離れろ」  小男を掌底で突き飛ばし、俺は再び道なりに歩いた。コウモリは後方で地べたに尻餅をついたまま、俺を追っては来なかった。  奴の話に乗る気はなかった。ただの詐欺師だろう。だが、話から思い出すものがあった。  姉のクロウだ。  魔術の素質があるからと、魔術都市に移った姉。  伯父はあてにならないが、クロウなら。  グレインロットにはいたくなかった。俺は嫌な思いをするのを覚悟で一旦故郷の町に帰り、伯父の家に向かった。  案の定、家から出てきた伯父の顔には「帰れ」と書いてあったが、さほど気にしなかった。本当に用があるのは伯父じゃない。姉だ。姉の所在について情報が欲しかったのだ。  伯父夫婦にたかりに来たのではない、姉について知りたいのだと説明して、伯父はやっと姉の話をしてくれた。姉は時々伯父宛に便りを寄越したらしい。前に手紙を受け取ったときには、研究者になったと書いてあったそうだ。一応取っておいてあるから欲しけりゃくれてやると言われ、頂戴することにした。  手紙の上に目を走らせると、クロウの勤め先だと思われる建物名が書いてある。十分な収穫だ。俺は適当に礼を言って、伯父の家から離れた。  アルアトに向かう安普請の馬車の中で、俺は時々、手紙を見た。  俺がどうしているか心配している言葉が、いくつも目に入った。  魔術都市アルアトは、伯父の住む町から南にある。名前の通り、魔術師が多く居住し、学問にいそしんでいる土地だ。  ここは魔術師狩りからの保護名目で、魔術師の移住を歓迎している。他の都市と比べると治安のいい場所で、見える範囲にあった木と漆喰の民家や商店は、どれもこれも小奇麗だった。民家前の花の鉢植えは手入れされているし、路上のごみも少ない。  馬車から下りて街の入り口の門をくぐったとき、自分と同年代の魔術師の集団がいて、将来のことを楽しそうに談笑していた。右手に到着した拵えのいい馬車からは、衣服の整った魔術師が下りてくる。  俺は妙な疎外感を味わった。連中とは知り合いでも何でもないし、卑屈になる必要はなかったのにだ。  早くクロウを探そう。居心地悪さから、そう思った。  通行人に聞きこんだ甲斐あって、その日の太陽が沈む前に、姉の勤め先――何という名だったか忘れたが、厳つい石造りの魔術研究所の前に、無事たどり着くことができた。  それから門番に近づいて、頼み込んだ。ここにクロウという名前の魔術師がいないか、いたら弟が会いたがっていると伝えてくれ、と。  この施設のどこの部屋に勤めているかまでは知らなかったから、無謀な押しかけもいいところだ。しかしそれでも、確認をするから明日もう一度来てくれという約束を取り付けることに成功した。  財布の中身を思い出しながら安宿を探そうとしたときには、もう晩。  何階建てにもなる研究所の窓から洩れていた、魔光灯の緑の明かりを、俺は遠い世界のように見上げた。 「……クロウはさぞ美味いもの食ってるんだろうな」  嫉妬に淀んだ声で独りごちて。  (2)  当時の俺に暗い情念があったのは間違いない。  だって不公平だろう?  同じ親から生まれたのに、一方は才能があって、食うに困らない。一方は素質がなくて貧乏で、路頭に迷っている。  次の日、俺は約束の通り、魔術研究所の門の前に出向いた。昨日の門番の横で、黒髪黒服姿の若い女が、きょろきょろと周りを見回している。  クロウだ。誰に言われるでもなく、俺は確信した。 「……クロウか?」 「レイヴン?」  女はこちらの声に気づいた途端、駆け寄って、抱き着いてきた。  綺麗な女だと思った。黒く長い髪は記憶の通り。顔立ちは大人びたが、昔の面影がちゃんと残っている。ただ、春先だというのに、体型の隠れるような妙に厚ぼったい服装をしていたのは気になった。 「見違えた。立派になった」 「クロウがアルアトに行ったのって、俺が四歳のときだしな。そりゃ変わるだろ」  抱きとめた腕の中にいる姉は、頬を赤らめて、恥ずかしそうにする。恋人との逢瀬と勘違いしていないかと問うてやりたくなる様子で。  すれた商売女ではお目にかかれない反応に、こういう女もいるんだなと、俺は新鮮味を覚えた。 「伯父さんの家からいなくなったって聞いた。どうしてるかずっと心配してた」  俺の頭のやや下から、耳に残る高い声で、クロウは言う。 「私のこと、覚えててくれた。嬉しい」  俺は仕事を抜けて出てきたクロウと、アルアトの商店街を歩いた。  庶民の買い物の場所なのに、石畳が敷かれ、掃除がされた綺麗な通りだ。小腹が空いたので、俺は匂いに釣られて、屋台で食べ歩きの軽食を買った。小麦粉を水でといた生地を薄焼きにして、焼いた肉と青菜を巻いたものだ。 「レイヴン。お金がないなら、無理しなくていい」 「無理じゃない。無理じゃないぞ」  俺は自分の財布から二つ分の代金を払った。姉相手に見栄を張って、何か益があるわけでもないのに。  いや、そもそも俺は、金に困って姉を頼りに来たはずだ。それなのに、何故か自分が金を出している。おかしい。絶対おかしい。けれどどうしてなのか、自分でも分からなかった。  肉汁で脂っこい軽食をかじりながら、俺とクロウは通りを歩く。この街では魔術師とそうでない人間の二人連れはやや珍しいのか、他の通行人が、俺たちに好奇の視線を向けていた。  俺は自分の身の上はあまり喋りたくなかったから、クロウの話を聞く側に回っていた。アルアトに来て、毎日学問に追われたこと、試験が厳しかったこと、使い魔が欲しかったけど諦めたこと……姉はずっと話し続けた。聞いてもらう相手がいることが、嬉しかったんだろう。 「今の生活はどうだ?」 「寮の部屋にはあまり戻らない。荷物置き場になってる。寝るのは仕事場の隅か、長椅子。疲れて毛布にくるまってると、気がついたら朝」 「それだけ仕事漬けなら、金になってるだろ」 「そうでもない。頑張っても、成果は有名な先生がみんな持っていく」  クロウは、虚しそうに笑った。  町の入口、商店街、住宅街……足が疲れるまでぐるぐる歩いた後は、広場の池の隅に腰かけ、クロウの話を聞いていた。退屈だとは全然思わなかった。魔術師の世界は俺には遠く、珍しい事物の塊だった。  時間は過ぎる。日は傾いて、夕になる。  池の水が夕の陽で橙色に染まったころ、クロウは立ち上がった。 「ありがとう。会いに来てくれて、嬉しかった。いつまで、アルアトにいる予定なの」 「特に決めてない。いっそここで働き口を探してもいいかもな」  俺は適当に答えた。実際はいいも悪いもなかった。財布の中身がなくなり次第、探すしかない。 「そうなの? じゃあ、明日、夜に会える?」  口調は尋ねる形でも、断らせない雰囲気だ。頷くと、姉は黒い瞳をぱっと輝かせた。 「正直、今の仕事は好きじゃない。けど、またレイヴンに会えるなら、励みにして頑張ろうと思う」  日没前の薄暗い通りを歩いて、俺はクロウを研究所の門の前まで送っていった。  研究所の窓からは、昨日と同じように、緑の光が漏れていた。    自分の宿に戻る途中、小さな人物の姿がちらと目に入った。  ……コウモリ、とか言ったか?  グレインロットで、魔術師になれる薬がどうだのとのたまった小男。奴の姿が建物の陰に見えた気がしたのだが、建物に近づいて確認したときには消えていた。  帰り道で買った惣菜を手に宿の部屋に戻ると、俺は食べるより先に、固い寝台の一つに仰向けで寝転がった。顔を覆うように手を遣って、一つ、困惑した息を吐く。  参ったな。金のことをどうやって言い出そうか。同じ宿で二人で生活――要は一時であれ養ってもらえたら助かるのだが、向こうが閉鎖的な環境で生活をしているのではそうもいかない。  それにクロウのあの態度。どんなに鈍くさい男でも気づくだろう。 「……俺、惚れられたのか? 実の姉に」  久しぶりに会った姉は綺麗な女になっていた。  食事中も、食べ終わった後で瞼を閉じても、彼女の長い黒髪と照れた笑い顔が思い出された。気恥ずかしくなるくらいに。   その次の日は夕方まで寝ていた。なんせ俺は金がない。動かなければ腹は空かないから、食べ物を買わなくて済むだろうと思ってのことだ。日が落ちる前には宿を出て、研究所の門に向かった。 「レイヴン!」  門前に着くと、こちらの姿を確認するが早いか、クロウが喜んで駆け寄って来る。服の裾を踏みつけて転びそうになった彼女を、昨日一昨日と同じ門番が笑いを噛み殺して見ていた。 「待たせたか?」  姉はふるふると首を横に振る。その後、俺の服の袖を、子供がするように引っ張った。 「どこへ行く?」 「食事。レイヴンはお金ないと思うから、私が払う。お腹いっぱい食べていい」  連れて行かれた料理屋はどう見ても庶民向けだった。あまり片付いていない店内では、下っ端の魔術師たちが仕事の憂さ晴らしに酒を呷っている。飛び交う客の声は粗雑で、上品さとは縁がない。  腹いっぱいなんて言うくらいだ。姉は俺が貧しいのを気にしてくれていたのだろう。けれど当の姉も、俺が思っていたほど懐に余裕があるわけではなさそうだった。  焼いた薄切り肉、ペーストを塗って焼いたパン、塩漬け肉の切落とし、卵と根菜の蒸し物、それに安酒。料理の味付けは大雑把で、塩辛いものが多かったが、量があって腹は満たせる。店員が俺たちの席に運んできたものを飲み食いしながら喋っていると、夜はすぐに更けて行った。  少し酒が回っていた俺は、軽はずみでこんなことを言った。 「昨日も今日も俺に構ってていいのか? 恋人はいないのか?」  途端、パンをちぎって口に入れていた姉の手が、ぴたっと止まる。小声になって、ぼそりと返事をした。 「……いない」 「少しは遊べよ」  俺の目から見ても容貌は決して悪くないのだが、 「どうでもいい男の相手をするくらいなら、一生独りでいい」  クロウは不愉快そうにむくれて、残ったパンのかけらを口に放り込んだ。  偏屈な女だ。  料理屋を出ると、夜風が頬を撫でた。酒で温まっていた体がいくらか冷える。料理の代金は最初の宣言通りに、クロウの馳走になっていた。只で腹が満たせたのはありがたい。  腹が膨れて酒が入ったせいか、横のクロウは目がとろんとしていた。 「眠いなら早く寝たほうがいいな。昨日は寝たか?」 「あまり寝てない。頼まれた仕事をしてた。今日帰ったら、また頼まれると思う」 「じゃあ俺の宿で寝るか?」  俺は軽い気持ちで聞いた。研究所に帰ったらこの状態で働かされるクロウを不憫に思ったからだ。下心は多分、なかったはず。  けれど。 「……」  変な勘ぐりをしたのか、クロウは黙ってしまった。酒のせいでほのかに赤くなっていた顔を、ますます紅潮させて。 「分かってると思うけど、俺、弟だからな。そう赤くなられると……」  赤くなられると、むしろ期待されているみたいで落ち着かない。しかもクロウはクロウで、「行かない」と断っては来なかった。料理屋の前で二人立ち止まったまま、体は冷えていった。  結局、俺はクロウを連れて自分の宿に戻った。道中のクロウは、子供のように俺の袖を掴んでいた。何も喋らなかった。  幸い部屋には寝台が二つ置いてあるので、姉に片方を貸せばいい。そう考えて部屋に入れたが……こんなときに隣の部屋では男女がことの最中らしい。薄い壁の向こうから女の嬌声が聞こえてくるので、クロウは恥ずかしそうに、壁にちらちらと視線を遣っている。 「……気にしないで、寝ればいいぞ」 「無理」  クロウは目が冴えてしまったらしい。  その夜はお互い気まずい空気のまま、毛布をかぶって固い寝台に寝転がっていた。   (3)  それでもいつの間にか寝てしまっていたようだ。  明け方、目が覚めた俺は、同じくいつの間にか寝ていたクロウを複雑な思いで見た。部屋を出て階段を下りると、起きたばかりの宿の主人に気分転換の散歩だと断って、一度外に出た。  日が昇る前の宿の周囲には誰もいない。商店の間に敷かれた石畳の上を、俺は一人でふらふらと彷徨い歩いた。特に目的はなかった。魔術師だらけのこの街で、普通の人間は自分一人だけのような錯覚が、誰の姿もない街並みと重なって、孤独感を煽っていた。  ふと、誰かがこちらを見ている気がした。初め、起きたクロウが俺を探してついてきたのかと思ったが、すぐに間違いだと気づく。目の前にひょいと姿を現したのは、グレインロットで会った胡散臭い小男だった。 「コウモリ、だったか? どうして俺に付きまとう」  小男はおはようございます、と慇懃に挨拶をして、にっこりする。 「私、分かるんです。あなたは魔術師になりたいはずだと。魔術師に生まれなかった自分の境遇を嘆いていると」  どきりとした。言い返す言葉が出てこなかった。  内心の動揺を抑えていた俺に、コウモリは近づいた。懐をごそごそと探って何かを取り出し、無理やり俺の手に握らせてくる。 「これをお持ちください」  指を開くと、手のひらに青い小瓶があった。中身は魔術の薬と思われた。 「あなたの血を一滴、中の液体に混ぜるんです。その後、液体を誰か魔術師に浴びせてください」 「……浴びせるとどうなるんだ」 「魔術の素質が移ります。相手から、あなたに。あなたは念願の魔術師になれます」  コウモリはくすりと笑って、俺が引き止める前にまた建物の陰に引っ込んで姿を消してしまった。  徐々に明るくなる中、残された俺は、呆然として手の中の魔術薬を見つめていた。  手のひらに収まる程度の小さな瓶。  素性の怪しい相手から渡されたものなのに、 「魔術師になれます」  たったそれだけの言葉に惑わされ、俺は小瓶を持ち帰ってしまった。  その場で捨ててしまえばよかったのに。  宿の部屋に戻ると、クロウはまだすうすうと寝息を立てている。  呑気なものだ。  いくら弟だと言っても、もう十年以上も会っていなかった相手だ。暴行されるとか、金を盗まれて放置されるとかを警戒したら、宿まで俺についてこないだろうに。  俺は握っていた小瓶の蓋を開けた。匂いもねばつきもないようだ。  所詮只で押し付けられたものだ。何の効果もない、詐欺用の品に決まっている。単なる水かもしれない。  しかし心のどこかで、もしかしたら本物かもしれないと思っていたのだろう。俺は今に至るまで使っているナイフの一振りを抜いて、左人差し指の先を軽く切り、ぷっくり膨れた血の玉を瓶の中に垂らした。  血の一滴はさっと液体に溶けていく。 「……さて」  魔術師は今ここにいる。しかも眠ったままだ。この液体を浴びせるくらい、すぐに終わる。  この薬がもし本物ならば、俺が魔術師になる。  俺はクロウの寝台に近づいた。  一歩。  一歩―― 「……レイヴン?」  急に、クロウの声が漏れた。彼女の顔に近づけていた小瓶を、さっと背に回す。  毛布の下で横になったまま、姉の体がもぞもぞと動くので、俺は慌てて小瓶の蓋を閉め、腰のベルトに引っかけた。 「目……覚めたのか?」  平静を装って、俺は尋ねる。  クロウはゆっくり体を起こすと、寝起きのぼさぼさな髪を振り払って、俺を見て微笑んだ。 「おはよう、レイヴン」   俺が何をしようとしたか気づいていない様子で。  今のは一時の気の迷いだ。俺は内心で詫びながら、姉に「おはよう」と返した。  小瓶を服の奥にねじ込んで、クロウを研究所まで帰す途中のこと。彼女が喋るたわいない話の中に、ある魔術師のことが混じった。 「ノトルニス? 誰だよそれ」 「昔、アルアトにいた魔術師。すごく優秀だった。でも研究内容が問題になって、除名処分。アルアトを追放になった」 「とち狂った天才ってやつか?」 「大雑把には合ってる」  クロウは肯定した。俺は続けて、何が問題で除名や追放を食らったのかを聞こうとしたが、もう研究所は目の前で、例の門番が俺たちをにやにやしながら見ていた。 「じゃあ、お別れだ」 「アルアトにいるなら、また夜に……」  クロウは別れを惜しんで、表情を憂げにする。 「おや、何もなっていないのですか。せっかくお渡ししたのに」  そこへ台無しにするかのように、ひょっこりと出てきたのはコウモリだった。 「誰? この人」 「有害な相手だ。クロウは早く中に入れ」  俺は直接的に答えた。こんな小男に構って、クロウが得をするはずがない。 「ずいぶん邪険にしますね」  コウモリが苦笑する。当然だ。中身の真偽はともかく、魔術師から魔術の素質を奪う薬を配るような人間だ。信用なんかあるものか。 「あっちに行け。どうして俺に付きまとうんだ」 「使用した結果が見たいのです。あれは、自分の境遇に不満がないとあまり意味がないものでしてね」  俺たちの穏やかでない雰囲気を嗅ぎ取ってか、道を行き交う通行人が訝しげにこちらを窺っていた。  コウモリはちらちらと、通行人に視線を遣る。獲物を見定めるような、狡猾な視線が丸眼鏡の奥から注がれた。 「ひょっとして、手本が必要ですか?」  俺は無視するつもりで答えずにいたが、小男は勝手に話を進めた。 「お安い御用。アルアトは石を投げれば十中八九魔術師に当たる街です」  コウモリは軽快に数歩動いた。俺に寄越したのとよく似た小瓶を、通行人――女魔術師と少女の、おそらくは親子連れに向かって放り投げる。間髪入れず、袖に忍ばせていた投擲用の短刀を飛ばして追撃する。短刀は空中で小瓶に当たり、割れ、中の透明な液体が飛び散った。  甲高い女の悲鳴が、朝の明るい通りを恐怖で満たした。 「私までこの街に出入り出来なくなるのは、本当は損なのですが……せっかくですから、少しお土産をいただいていきましょう」  口を動かしながら、コウモリは通りの中央に進み出た。女魔術師の服が、液体のかかった場所から黒くなる。少女も同じ様子を見せた。黒くなったそれはどろどろと溶けて路上に流れ、黒い溜まりを形作る。溜まりからは放たれた矢のように液が宙を飛び、コウモリの指先に収束していった。  液体を被って衣服のぼろぼろになった女魔術師と少女は、路上に倒れたまま起き上がらない。  周囲の魔術師が数人で、コウモリに向かって捕縛の魔術を放った。けれども、魔術の縄はコウモリの直前でしなびて消えてしまう。 「け、警吏を呼べ!」 「交戦用の魔術に長けた者を!」  路上にいた何人かは、声を張り上げてばたばたと走り散っていく。  走れない代わりにか、残って魔術を放とうとした老婆の魔術師の頭を、 『穿通。直。黒、一線』  コウモリの指先から伸びた黒い一糸が額から貫いていた。黒い一糸は毛虫のように蠢くと、頭から抜けて再びコウモリの手元に戻る。老婆は大きく目を剥いたまま、ばたりと仰向けに倒れた。 「……魔術?」  クロウを背に庇って、俺はコウモリを睨めつける。 「そうです」  丸眼鏡をかけた禿頭の小男は、にこやかに笑った。     魔術師の好む格好がある。裾の長い衣服に長い髪だ。男も女も、若いのも年寄りもだ。  もちろん違う格好の魔術師も当然いるので、外見が一般的な魔術師のそれに当てはまらないからといって、コウモリが魔術師ではない理由にはならない。しかし、なぜなのか分からないが、俺は無条件に、奴を普通の人間だと思い込んでいた。 「レイヴン、退いて。罪を犯す魔術師の相手は、魔術師の仕事」 「馬鹿言え。さっきのを見ただろ。魔術が通じないぞ」  俺はクロウの腕を掴んでいた。言葉と裏腹に、姉の高い声は震えていた。 「レイヴンさんの言うとおりですよ」  女魔術師と少女の横たわる体を背後にしていて、コウモリはなお微笑んだ。 「勇ましいのは結構ですが、そちらの娘さんでは私には敵いません」  余裕のある足取りで、一歩一歩俺たち二人に近づいてくる。  周囲では、生き残った数名の通行人が逃げ出す機会を探っている。研究所の門番は、門扉を閉じて奥に引っ込んでしまったようだ。関係者のはずのクロウを放置する形で。 「さてレイヴンさん。魔術に憧れませんか。あの小瓶、お持ちでしょう?」 「……お前と同じことをするのは御免だ」  女魔術師と少女は、倒れたきり動かない。俺は首を横に振った。腰に吊った二振りを、さっきからいつ抜くかを考えている。とは言え、コウモリをひっ捕らえてアルアトの警吏に引き渡すなんて、まず無理だろう。親父さんの下では、戦い慣れた魔術師に喧嘩を売るなと、常々言われていた。今しがた見せられた、老婆の頭を貫通した魔術。あれを仕掛けられたら、俺なんてあっさりとあの世に送られるだろう。  それでも、この場から姉を連れて逃げ出すくらいなら俺にも出来るかもしれない。 「そうですか」  少なくとも口ぶりだけは残念そうに、コウモリは言う。 「あなたならと思ったのですが、これは私の眼鏡が曇っていましたかね」  指先でちょいちょいと眼鏡を動かす仕草をして、直後、右手がすっと動く。俺は咄嗟の判断でクロウを押し退けた。  コウモリは袖に刃を仕込んでいたようだ。俺は刃の一閃はかわしたが、上着の一部がざっくりと切れている。ちょうど小瓶を押し込んでいた場所だ。石畳の路上に落ちた服の残骸からは、布が落ちたのとは違う、こつんという音が響いた。  俺の眼前に、小男の右手の指が向けられる。見たところは素手に過ぎないが、十分以上に脅しの効果があった。これから刃が出るにせよ、魔術が出てくるにせよ。  コウモリが入れ墨のある左手で服の切れ端を拾い上げ、中を探る。小瓶を取り出すと、眼鏡ごと顔を近づけてまじまじと見た。 「割れていませんね。しかも既に準備済みじゃありませんか。あなたはその娘さんに執着があるようですから、彼女から受け取るのがいいでしょう」  そして小瓶を放り投げる。クロウの頭上目がけて。  続けて放たれた短刀が小瓶を追って―― 「! やめ――!」  俺は動いた。  あれがクロウにかかれば、俺は魔術師になれるかもしれない。  でも嫌だ。クロウが俺の僻みの犠牲になるのは。  ぱりん、ばしゃっ。  さっきと同じように小瓶は割れ、破片と短刀は路上に転がる。  俺の血が溶けた小瓶の中身は、俺の頭に浴びせられた。  姉を庇ったゆえに。    熱い。  頭が熱い。 「クロウ、大丈夫だったか」  クロウはこくこくと頷く。俺の影になった彼女の顔は、幽鬼を見るかのように青ざめていた。 「……自分で被ってしまいましたか」  熱い。頭の中から焼けていくようだ。そう遠くない位置にいるコウモリの言葉さえ、どこかぼやけた響きで聞こえてくる。 「解せませんね。あなたは魔術師になりたがっていたと思うのですが、なぜ自分からあの薬を使わなかったのですか? しかも、魔術師の代わりに自分が被るなど」  俺は奴のほうに振り返った。飄々としている小男に、抑えのきかない怒りが湧いている。 「うるせえよ。今の俺が嫌だから嫌なんだ。コウモリ、自分がしたことは分かってるな? アルアトの警吏に捕まるか、ここで俺にやられるか、好きなほうを選べ!」  俺は吠えた。自棄を起こしていたのかもしれない。慎重になっていたところで最早どうにもならないのだと、直感がひしひしと伝えてくる。  コウモリは笑い出した。 「どちらも受け入れられません。アルアトに捕まると面倒なので、私はお暇しますよ。あなたの症状は少なからず興味深いですが」 「逃がすかよ!」    俺は路上を蹴った。どこから余裕が湧くのか、こちらに背を向けたコウモリに向かって突っ込む。  右の腰の刃を逆手で抜いて、背中から切り上げてやるつもりで腕を振った。しかし、奴は瞬時にこちらを向いた。袖の仕込みの刃が、音を立てて俺の刃を食い止める。  刃と刃がぎりぎりと押し合う向こう側で、コウモリは愉快気に口を動かした。 「頑張りますね。でもその体はもちません」  眼鏡の奥で目を細め、小男は俺の腹を蹴った。俺の口からは呻き声が漏れ、体はその場にくずおれる。得物は手から落ち、石畳の上に転がった。 「レイヴン!」  遠くから、女の高い声が俺を呼んでいた。あの声はクロウだ。痛ましく、泣き出しそうな声。  俺は石畳の上に膝をついて、起き上がろうとするが……どうしても立ち上がることが出来ない。  それなのに頭の上からは憎い相手の声がする。 「まあ、いいでしょう。今までの例からすると、この場で楽にするよりも生き延びたほうが地獄を味わうでしょうし……放っておいても死にたくなります。では失礼します、レイヴンさん」 「待て……っ!」  俺は四つん這いのまま、ずるずると体を引きずって前進した。しかし、頭だけだった熱さが、次第に体中に広がって、どうにも力が入らない。そのうち這いずることも出来なくなって、路上に倒れ込んだ。  コウモリはどこだ。どこに行った? 殺してやる。殺してやるから、面を見せろ。  頭が熱い。体が熱い。頬に触れる石畳は、ひんやり冷たくて心地いい。  手も足もがくがくする。熱いはずなのに、奇妙なほどの寒気がする。  胃の奥から何かこみ上げてくる。腹の中が気持ち悪い。口をだらしなく開くと、食べたはずのものが胃液と混ざって吐き出された。誰かが俺の喉に棒を突っ込んで、中のものを掻き出しているかのように。 「レイヴン!? レイヴン!」  頭が熱い。  体中が熱い。  遠のいていく意識の中、耳に残ったのは姉の声。  甲高く悲痛な女の叫び。 (4)  頭の中が焼けて白い灰が残ったような、そんな感覚があった。  うっすら目を開けると、そこは陽のよく入る明るい部屋だった。  天井も、壁も、床も、白い。  死者の国ってのはこういう色のない世界なんだろうかと、ぼんやりと思ったとき。 「レイヴン!」  耳障りにさえ思えるような姉の高い声が、ここが現世だとはっきり教えてくれた。  よろよろと上半身を起こすなり、ずっと隣にいたらしいクロウが抱き着いてくる。胸元ですすり泣きを始めたので、俺は鼻水がつくのは我慢して、彼女の頭に軽く触れた。  よかった、クロウは無事でいた。 「ごめんな、心配させたみたいだ。ここはどこだ?」 「職場」  涙声でクロウは言う。姉の職場……研究所の中に入れてもらったのか。俺は机の上で寝かされていたらしい。室内は温暖にしてあるのだろうが、それでも自身の状態を奇妙に思って、つい、言葉に出した。 「ところで、どうして俺は裸なんだ?」  目が覚めたら素っ裸だった。さっきまでは薄い布が胴体にかけてあったが、今やその掛け布すらくしゃくしゃで、腰のあたりで丸まっている。  姉はやっと俺の胸から顔を離した。俺が起きる前にも泣いていたのか、顔が腫れぼったい。 「……服、汚れてた。外傷も確認したかった」  ああそういえば、意識が飛ぶ前に吐いたような気がする。外傷の確認ってことは、つまり……だ。知らないうちに体中全部見られたのか。あれとかそれとかも、くまなく。  俺のくだらない考えなど知る由もないクロウは、奥歯を噛んで気難しい表情を作った。 「レイヴンの体は多分、大丈夫じゃない」 「どういうことだ?」  体は動く。目は見えるし耳も聞こえる。どこも痛くない。白い糸のようなものは視界に入るが、ひどい不調の自覚は――その時点では、だが――何もなかった。 「見れば分かる」  クロウは一度部屋の隅に行って、直径が人の頭ほどの丸い鏡を持って来た。  渡された鏡を何の気もなく覗きこんで、俺はぎょっとした。鏡を持つ手が震える。 「なん……だ、これ……」  黒く短かった髪が白くなっている。しかも、肩を越えるほどに伸びていた。頭に白糸かかつらでも被せられたのかと思って引っ張ると、頭皮も引っ張られる感覚がある。さらによく見ると、瞳の色も薄くなっているようだ。 「意識のない間にレイヴンを調べた。目立った外傷はなかった。でも、悪いことが起きてると思う。後で、もっと調べる」  唇を噛む姉の横で、俺は鏡を机に置いて倒れる前の記憶を辿った。  生き延びたほうが地獄を味わう――コウモリは、確かにそう言っていた。  そして思い出す。あいつはどうなった? 「……コウモリは?」  クロウは険しい顔を崩さなかった。 「四人殺した禿げ頭の男なら、アルアト中が捜索してる。でも、見つからない」 「四人? 三人じゃないのか?」 「あの母親、お腹に子供がいた」 「そうか……」  偶然か、何かコウモリに意図があってのことかは知らないが、自分の目で見た限り犠牲になったのはみんな女だった。母子も老婆もあの場に居合わせなければ、生きていられただろうに。  ひどい罪悪感に圧し掛かられた。自然と、俺の手は拳を作って震えていた。  もう一人、犠牲になりかかった女がここにいる。 「クロウ」  名を呼ばれて、姉は俺の顔を見た。 「服を着たいんだ。着替えはないか?」 「ある。一人で出来る?」 「大丈夫だ。だから着替えの間、外しててくれ。恥ずかしい」  現状が既に裸だ。恥ずかしいなんて今更な理由だと思う。けれどクロウは文句を言わずに、横の棚の上にあった服らしきものを取ると、俺に渡した。終わったら呼んで、と言い残して、部屋を出ていく。  渡された服を持ったまま、俺は部屋で一人、思いを巡らせていた。  どうして俺はクロウに薬を使わなかったんだろうか。  愛情か? それとも臆病風に吹かれたからか?  どちらにしろ、 「悪人には向いてない……か。そうだよな」  別れ際の親父さんの言葉をぼんやりと思い出す。  他人を犠牲にして利を得ることが出来ないのでは、確かに、悪人には向いていない。    姉から受け取った服は、裾の長い、魔術師が好んで着るものだった。建物内には魔術師用の衣服しかなかったんだろう。魔術師ではない俺は、複雑な気分で袖に手を通した。  クロウが戸の向こうから入っていいか聞いてきたので、問題ないと返す。すると女を一人連れて入室してきた。 「こっちは紅。私の友人で、魔術師」 「あなたがクロウの弟ね。初めまして」  姉に連れられてきたのは、赤い衣服に身を包んだ、若くて綺麗な女だった。裕福な家の魔術師だろうと俺は踏んだ。生まれながらに恵まれた人間だ。俺が半分妬み、半分下心で女の体を見ていると、 「親からはピジョンブラッドって名前をもらってるわ。私には紅の魔女って肩書きがあるんだけど、それを略してるのよ、クロウは」  視線をどう解釈したのか、姉の“紅”という呼び方に説明を入れてきた。なるほどそれで紅なのか。 「じゃあ俺も紅って呼べばいいか? 紅は綺麗だな。服も顔も」  紅は俺に困惑した様子で、横のクロウに尋ねる。 「……ねえクロウ、あなたの弟って気が多いの?」 「私も、初めて知った。性格、変わった……?」  応じるクロウまで困惑が顔に出ていた。  部屋の小さな椅子に、二人は腰かけた。紅が話を始めたので、俺はまた机に戻って座った。  「魔術師になれるという触込みで怪しげな薬を売るのは、既にいくらでも報告があるのよ。ただの色つきの小麦粉で、高いお金を騙し取るのは珍しくないわ。でも今回みたいに、強力な魔術の薬を堂々とアルアトにまで持ち込んできたのは初めてね。薬の真偽は、実物がない以上判断は保留させていただくけど」 「……俺が招き入れたようなもんか」  クロウも紅も、答えなかった。肯定も否定もしづらかったんだろう。代わりにか、 「果物持って来たの。どう? 食べられる?」  紅の魔女はにこにこして、手提げのかごを見せてきた。中には、黄色く丸い柑橘類の果物が入っている。 「いや、いらない」  俺は断った。腹が減ったという感覚がない。失礼ながら、あまり美味そうにも思えなかった。 「レイヴン、水分は取ったほうがいい」 「そうか?」  クロウまでそう言うなら、口をつけるか。俺は紅から果物を一つ受け取った。皮を剥いて、房を口に入れ――眉根を寄せる。 「何だこれ。味がないぞ」  奇妙だ。酸味がない。甘くもない。当然、美味くもない。水気と噛んだ感触だけが歯から伝わる。 「そう? ごめんなさいね。でも私は甘いと思うのよ」  俺が剥いた実から別の房を取って口に運んだ紅は、納得がいかないようだ。  様子を見ていたクロウは、何かを思いついたように席を立って部屋を出、すぐさま引き返してきた。手には白っぽい小石を持っている。 「口を開けて」  妙な気迫に呑まれて、俺がぽかんと口を開けると、クロウは白っぽい石を口内に押し込んできた。 「味は?」  何もない。俺は正直に首を横に振る。姉の顔は、みるみるうちに色を失った。  しばらく待ってみたが、やっぱり味はしない。もういいだろうと思って石を手に吐き出す。子供の手のひらにも乗る程度の大きさの白っぽい石と、俺の平然とした顔を交互に見て、クロウは声を震わせた。 「……これ、岩塩。味が……分からなくなった?」  それから後はあまり思い出したくない。  研究所内の、時には外の魔術師たちが入れ代わり立ち代わりやって来て、俺を質問攻めにし、体を曲げ、叩き、横にしたり立たせたりし、湯や冷水に漬け、薬を塗り、飲ませ、毛髪や体液を採取し、薬液をくぐらせ、何かを測定していった。男魔術師ばかりだった。せめて女が来てくれればまだましだったのに。  何日も費やした結果分かったのは、俺は痛みがなく、食欲も味覚もなく、眠くならない体になった、ということだった。    夜は退屈だ。  俺はこの部屋で目を覚まして以来、ずっと眠っていない。クロウはまめに様子を見に来てくれるものの、あまり俺に付き合っていると彼女のほうが体を壊しかねない。  廊下を通る魔術師に、退屈しのぎになるものはないかと聞いたら、魔術の本を渡された。ここにはそういうものしかないんだろう。俺は元来魔術師でない上、相応の教育を受けていないから、内容を理解するのに一苦労だ。今夜も数ページ読んだだけで気力がなくなった。  朝になったらクロウに解説してもらおうかと考えていると、戸の向こうからそのクロウの声がした。 「私はここを辞める。環境のいい田舎に移って、レイヴンと過ごす」  部屋に入って来るなり、姉は突然宣言した。  ここは建物中に魔術師がいるので、魔光灯の緑の光は絶えることがない。光に照らされた姉の瞳は、ゆるぎない決意を映していた。 「俺と、って……」  持っていた本を机に置いて、俺は問い返す。 「治療のため。レイヴンの体は私が治す。みんな反対したけど、もう決めたこと」 「あ、あのなあ……」  姉の口からぽんぽんと出てくる言葉を、俺は最初、呆気にとられて聞いていた。彼女の話の意味が頭に浸透してくると、今度は腹が立った。クロウは俺の今後まで勝手に決めているのだ。自然、返す声は大きく荒っぽくなる。 「コウモリに会ったときのこと覚えてるだろ? あの薬のことも覚えてるだろ? 俺はクロウから、魔術の素質を奪おうとしたんだぞ!」  そんな奴に構って生活をふいにするなんてどうかしてる。普通なら、俺との縁を切るんじゃないのか。長いこと会わずにいた弟のために犠牲になる必要が、クロウのどこにあるんだ。  俺はクロウの正面に立って、彼女の肩に手を置いた。母親のような庇護でも気取ってるのかと思うと、苛々した。やや乱暴に姉の肩を掴む。 「俺はクロウを犠牲にしようとして――」 「でも、しなかった」  クロウはまったく動じなかった。それどころか、俺に向かって微笑む。 「レイヴンは私を選んだ。だから、私もレイヴンを選ぶ」 「……後悔するぞ」  そもそも、俺がクロウを僻んだりしなければ、こんな歪んだ体になることもなかったんだ。  馬鹿な女だ。ふっと怒りが抜けて、俺は姉の肩から手を離した。代わりに、彼女の頭に手をやって胸に寄せる。 「今、別れるほうが後悔する。父も母も死んだ。レイヴンまでいなくなったら、私には何もない」  抱き寄せたクロウは、温かった。手放したくないほどに。    姉は告げる。行き先は錆の谷だと。アルアトからは北東、グレインロットからは東に位置する辺境だ。 「錆の谷……何でそんな場所に」 「僻地であまり人がいないから静か。温泉も湧いてる。レイヴンは味覚や睡眠欲がない。食べることや、寝ることで気持ちを安定させることができない。だから」  だから代わりに、街の喧騒から離れて湯に浸かることで落ち着かせようという考えか。 「そうだな……」  俺は、ガラス窓のそばで錆の谷の方角――と言っても今は夜だから当然闇だが――を指し示すクロウの、頭の頂から足の先までを眺めた。この厚ぼったい服の下はどうなっているんだろう。 「クロウが俺と一緒に温泉に入ってくれるんだったら、行ってもいい」  それは、俺としては半分冗談の提案だったのだが、 「……」  以降しばらく、クロウが沈黙してしまった。失敗したと思った。黙されると自分まで恥ずかしい。耳まで真っ赤になったクロウが小声で「それでいい」と答えるまで、俺はかなり気まずい空気を味わった。  クロウの答えを、俺は何度も頭の中で繰り返した。「それでいい」。聞き間違いでなければ、同意の言葉だ。 「いいのか?」  念のため、俺は確認した。クロウはもう一度頷く。 「……いい。性欲も人間を構成する大事な要素」  まあ……それはそうなんだが。  クロウに承諾されてしまったので、こちらとしても冗談で流せなくなった。  これからは田舎暮らしか。  夜の闇を示されても錆の谷がどんな土地かさっぱり見当がつかなかったが、クロウと一緒ならそれもいいだろう。偽りでなく、そう思えた。 (5)  □ 「……あれから三年か」  春の錆の谷。夕に川原の温泉の湯に浸りながら、俺は自分の白い三つ編みを弄った。  三年前にこの地にたどり着いて、奥の温泉に行こうとしたときに、川原に湯が湧いているのに気がついた。迷った末に近かったほうを選んだのだったか。  川岸に放置されていた空き家を解体して木材にし、近くの町の大工にも手伝ってもらって建てた家は、今や器材と本の山と魔術の材料で溢れかえり、足の踏み場もない、立派な魔術師の家に変貌している。  ぱちゃっ。  クロウが湯に手を沈めた音がした。  律儀なことに、クロウは三年前の俺の戯言に今でも付き合っている。   初めは精神が落ち着くどころか逆に興奮していたが、日が経つにつれある程度は慣れた。  クロウはクロウで、最初のうちこそ恥ずかしがっていたが、段々気にならなくなったらしい。大胆というか鷹揚というか開けっぴろげというか、あまり恥じ入ることなく裸で四肢を伸ばしている。  要するに俺としてはあれもこれも見放題だ。  ……同時に俺も裸を見られているわけだが、それは置いておく。  今は結い上げている黒髪は、下ろしているときには真っ直ぐで艶があって綺麗だ。白い肌はなめらかで、大きく膨らんだ胸は張りがあるし形もいい。くびれた腰も尻の曲線もそそる。体全体は太り過ぎでも痩せ過ぎでもないが、強調するところは強調している、官能的な造形。  目の前にいるクロウは、そんな体の持ち主だ。初めて見たときは驚いたし、喜んだ。 「前から思ってたが、どうして春になっても暑苦しい格好してるんだ?」  姉の服は温泉を囲む岩の上に置いてある。黒くずっしりとして裾が長い、典型的な魔術師の衣服だ。軽やかでも華やかでもない。 「……昔、体型をからかわれた。恥ずかしいから、あまり体の線が出る服は着ない」  体型……胸か。俺の感覚だと、引け目を覚えるようなものじゃない。むしろ誇っていいとさえ思うが。 「堂々としてればいいんじゃないのか?」 「そうでもない」  どうもクロウ本人は気に入らないらしく、口を尖らせた。偏屈だ。 「レイヴン、痩せた」 「そうかもな」  姉の声に、俺は曖昧に答える。  生き物が生命を維持する基本は食事だ。ろくに食えない俺が痩せて死に近くなるのは、至って普通のことだろう。この体になって三年。正気も保てている。本当にクロウのお陰とは言え、よく生きていられたものだと思う。もちろん、まだ死にたくはないが。 「体、悪くなってる?」  不安を煽ったのだろうか、クロウは急に、俺の首に手を回して抱き着いてくる。 「大丈夫だ」 「でも」 「死んだらこうやって風呂に入れなくなると思うと、死ぬに死ねないからな」  俺は姉にからかうように告げた。押し当てられる胸の感触が心地いい。が、 「またそうやってはぐらかす」  気に障ったのか、クロウは俺の体からぱっと離れてしまった。勿体ないことをした。それでも、クロウは怒って温泉から出ていく風ではない。 「クロウ」  不安げにうつむく姉に、俺は安心させるために告げた。 「俺は大丈夫だ。クロウを置いてはいかない。だからそんな顔しなくていい」  俺がいなくなった後、この偏屈で強情な姉がどうなるかを考えたら、簡単には死ねないのは本当の気持ちだ。  こんなに命に執着するようになったのも三年前からだ。皮肉なものだと思う。体質が変わるまでは、姉に会うまでは、今ほど死ぬのが惜しくはなかったのに。  雪解けで水量を増したメイリ川が、豪快な音を立てて流れていく。  木々は雪と黒い幹で白黒無彩だった冬景色から、新緑と花の色で彩られた春の景色に移ろって、賑やかな生命の季節の訪れを謳歌している。  春の穏やかな風に乗って、花びらが一枚ひらひらと舞い、湯の上に落ちた。  鮮やかな桃色の花びらだった。  (黒と白・了) ■[chapter:6 血縁の責] (1)  穏やかな陽気の、春の午後。  錆の谷の、姉弟が住む川岸の家に一人の客がやって来た。 「やあ」  レイヴンが玄関を開けると、客人は攻撃性のない顔で、へらへらと笑った。 「レイヴン君か。大事ないみたいで何より。クロウちゃんは」 「ジェイも久しぶり。クロウは中で薬作ってる」 「入っていい?」  握手のために差し出された手を握り返しながら、レイヴンは「ああ、どうぞ」と促した。客人は男だし、しかも魔術師なので拍子抜けしたのが本音だが、知り合いは知り合いだ。  鞄を抱えて屋内に足を進めたジェイは、床に紙切れと本と魔術の器材が尋常ならざる量で散らかる様に出くわして、苦笑した。 「相変わらずだね」  彼の物言いには、魔術師はどこでも変わらないねという、諦めが見えた。  やって来た客人は魔術師。年齢は二十代後半ほどに見える、ひょろっとした長身の男だ。伸びたぼさぼさの金髪を結わいて垂らしている。各地を放浪しているゆえか、着ているものは魔術師候の裾の長い衣服ではなく、薄汚れた上着にシャツにズボン。そこらで労働をする庶民のものだ。  兄のノトルニスという魔術師の不祥事が原因で、魔術都市アルアトにいられなくなったのだと聞いた。 「レイヴン、誰か来……ノトルニス?」  自室からふらっと出てきた姉のクロウが、ジェイの姿を見るなりびくりとする。 「僕だよ、クロウちゃん。そんなに兄に似てるかな」  ジェイは笑ってクロウの勘違いを正す。けれども彼のこわばる顔は、辛い影を落としていた。  姉弟はばたばたと慌てて本の山を退けて、ジェイを台所に通した。魔術の器材と本でごった返す家の中で、比較的片付いているのは今はここぐらいしかない。  奥から椅子を引っ張り出し、水の入ったカップを机に並べて、レイヴンは食卓で向かい合うクロウとジェイの横に席を取った。 「ジェイ、久しぶり。さっきはごめん」 「いいよ。兄を知る人はみんなそう言う。そんなに似てるかな?」  詫びる姉をジェイはなだめた。内心では傷ついている風にも見えたが、口調だけは軽い。 「兄弟が似るのは普通だしね。クロウちゃんとレイヴン君も似てるし。レイヴン君が中性的だから尚のことかな」  言われて、レイヴンは姉のほうに顔を向けた。この綺麗な姉に似ていること自体は不快ではないのだが、自分が女のように見えているとなると、同時に複雑な感情が湧く。 「そうは言うが、兄に似てるってのが苦手みたいだな」  レイヴンは率直に感想を返した。クロウはともかく、自分はノトルニスという魔術師には会ったことがないから、どれほど似ている兄弟かは分からない。 「……まあ、そうだね。昔は飛び抜けて出来のいい兄と比較されて嫌だったし、今の兄は悪い方向で有名になったから」  ジェイはカップの水に口をつけて、続けた。 「おかげで僕はアルアトには入りたくなくなった。入るのに制限があるわけじゃないけど、居心地が悪くてね。ピジョンブラッドも、久しく顔を見てないな」 「紅なら最近会った」  ノトルニスとジェイを間違えたことで、ずっと気まずそうにしていたクロウが声を出す。 「そうか。元気だったかい?」  すると、ジェイはぱっと喜んで食らいついて来た。姉弟が、紅の魔女がやって来たときの騒々しかったことを話すと、客人はくすくすと笑う。いくらか気分がほぐれたように見えた。  食べる物もあったほうがいいだろう。昨日焼いた菓子があったのを思い出し、レイヴンは棚から皿を出して卓上に置く。ジェイは、戸惑った様子でこちらを見てきた。視線の意味を理解して、レイヴンは手を横に振る。 「俺のことは気にしなくていい」 「そうか。じゃあ、もらうよ。ありがとう」  こちらの体の事情を知っているので、目の前で食べることに抵抗を感じたのだろう。自分からすると、余計な気遣いをされると却って鬱陶しいのだが。  姉とジェイが一枚一枚、小麦粉の焼き菓子を減らしていく。腹の減らない自分は、当然手をつけずにいた。最後の一枚をクロウがかじって飲み込んでしまうのを見届けて、ジェイは、クロウとレイヴンの顔をちらちらと交互に窺った。 「そろそろ本題に入っていいかな。頼まれてた、魔術師になれる薬の話だ」  ジェイは肘を卓上について手を組み、顔の前に寄せた。 「魔術師になれる薬なんてのは、大抵は偽物だ。金をだまし取るだけのね。都市の路地裏に迷い込めば、そういう怪しい物品を扱う売人はうろうろしてる。ひどい場合は、アルアトに登録している魔術師が、楽な金稼ぎをしたくて偽の薬を作って売ることさえある。だけど」 「それでも、買う人はいる」  クロウが言葉を挟むと、ジェイは頷いた。 「胡散臭いものに手を出したら、後が怖いはずなのにね。果たしてそうまでして魔術師になりたいものか、僕には想像がつかないけど……」  そこまで喋って、彼は言い淀んだ。どうもまたこちらの心証が気になったらしい。面倒な男だ。 「俺のことは気にしなくていい」  レイヴンは先ほどと同じ言葉を繰り返した。余計な気遣いは本当にいらない。 「ごめん、君のことを悪く言う気はなかった。話を戻すよ。僕の結論を言う」  軽い咳払いをして勿体ぶった後、客人は告げる。 「魔術師に生まれなかった者が魔術師になれる手段は、存在する」  驚かなかった。三年前のコウモリの一件以来、ずっと引っかかっていたことだからだ。偽薬なら、あんな風に配ったところで、コウモリには益がない。  レイヴンの左手に座るクロウも、同様に思っていたのかもしれない。彼女の[[rb:面 > おもて]]は動じることもなく、唇も動かず、静かだった。しかし――  魔術の素質は生まれつきのもの。魔術師に生まれなかったら、その人間は一生、魔術師にはなれない。それがずっとずっと常識だった。  もし今のジェイの話が真実なら、今までの世の理がひっくり返る。 「僕はこの件に、兄……ノトルニスが、何らかの形で関与していると考えてる」 「根拠は」  クロウが当然の情報を欲した。 「追放前の兄がしていたことが、一つ目。二つ目がこれ」  ジェイはよれよれの鞄の中を探ると、小瓶を取り出して卓上に置いた。中身は、魔術の薬だろう。  ……薬入りの小瓶。  ぞっとした。瓶の形状こそやや違うものの、三年前の出来事を十分に思い起こさせる。 「僕はアルアトを出てから、あちこち歩いてる。クロウちゃんからレイヴン君のことを聞いて、各地で売られている“魔術師になれる薬”を集めたんだ。こういうのはやっぱり足が物を言う。もちろん圧倒的にハズレが多いんだけど、中には」 「これが? これがそうなのか?」  思わず、レイヴンは声を張り上げた。ジェイは小瓶の蓋に人差し指を置き、軽く揺らす。 「そう。やっと見つけた魔術の薬だ。この魔術の編み方は、兄のものだと思う」  小瓶にはクロウの厳しい視線が注がれていた。 「三年前の、コウモリという男の起こした事件。あれに兄の……ノトルニスの作った薬が使われた可能性は低くない。それと、ここからは推測が強くなるけど、コウモリはノトルニスの手で魔術師に“なった”のではないかとも考えてる」  喋りながら、ジェイは小瓶をつまみ上げ、食卓の中央に置き直した。  三人ともが言葉を発することなく、小瓶を見つめ――いくらかの時間が流れた後。 「ジェイ。ニニのときの薬、見てもらえる?」  クロウが席を立とうとした。 「ニニって?」  姉弟は客人に、秋に来た女の患者のことを手短に説明した。魔術師になれるという触込みの薬を服用し、手を悪くしたこと。また、彼女は夜に不審者に狙われたこと。  ジェイは顎に手をやって、軽く唸った。 「襲った奴の目的は、ニニって娘さんの症状を確認して、強引にでも体を回収することだったかもしれない。ニニは今はどうしてる?」 「町で普通に生活してるはずだ」  ニニはあの後、何回かこの家に来ている。完治とはいかないが、症状は軽くなって喜んでいた。 「直接訪問してみたい。住所は分かる? 大体でいいんだけど」 「帳面に書いてあったと思う。レイヴン」 「分かった。探すよ」  レイヴンは本棚の奥から来訪者を記録した帳面を探しだし、ニニの項を開く。ジェイは住所を自分の紙切れに書き写すと、鞄に押し込んだ。明日にでも訪ねるつもりのようだ。  日が傾きかけたころ、クロウとジェイの二人は、クロウの部屋で魔術の薬をいじり始めた。その様子を、同じ部屋の隅から、レイヴンは邪魔にならないよう覗いていた。  魔術師でない自分には何も手伝えない。それでも、姉と客を二人きりにする気はなかった。 (2)  その晩、川原の温泉にて。  可能な限りのありったけの不満を顔面で表現するレイヴンの前で、ジェイが大きなくしゃみをした。 「……レイヴン君、睨むのは、やめて欲しいかな」 「あんたがいるからクロウが入って来ないんだよ」  湯に浸かりながら、裸のレイヴンは口を曲げた。  不満を隠す気などない。どうして男と一緒に露天風呂に入らなければならないのか。ああ、つまらない。  湯気のもうもうと上がる中、同じく裸のジェイは腰を下ろした。体は細いが、しなやかという感じだ。一般的な魔術師のような不健康さはない。屋内にこもらず旅をしているゆえだろう。 「その口ぶり、いつも姉弟で一緒に入ってるのかい……? いや、詳しく聞くのは野暮か」  ジェイはまったく機嫌の直らないレイヴンの顔を見て、苦笑いする。 「僕はここにクロウちゃんが来ても構わないよ。むしろ嬉しい」 「駄目だ。絶対駄目だ」  お断りだ。姉の裸を知っているのは自分だけでいい。  姉のクロウだが、まだ作業をしたいとかで家に残っている。レイヴンはジェイと二人、家を追い出された。ちゃんと風呂に入ってから帰って来いときつく言われている。  あまり温まっていないが、湯に浸かったことは間違いない。これで言い分は立つ。男と二人で長湯をしても時間の浪費なので、さっさと家に戻ろうと考えて……ふと、気になった。 「……なあ、ノトルニスが追放されたのって、魔術の素質の根元を知ろうとしたからだったか?」  天才的な魔術師が追放された理由は、昔、姉が話してくれた。しかし詳細までは聞いていない。  湯を楽しんでいたジェイは、話を振られたのに少し驚いて、その後穏やかに目を細めた。 「そうだよ。兄は、疑問に思ったことを解明しようとしてるだけじゃないかな。世の中には二種類の人間がいる。魔術師と魔術師でない人間。それを疑問に感じても、普通は解明する時間も技術もない。だけど、兄にはあった」  最後はやや悔しげな声音で語りながら、ジェイは温泉の湯を両の手ですくった。湯は、彼の指の間からこぼれていく。 「水が下に流れ落ちるのも、天の星が夜だけ見られるのも、理由がある。探究の末に、先達が解明した」  湯が全部こぼれてしまうと、彼は次に、夜空を仰いだ。つられてレイヴンも天の星を見る。  星の一つ一つが毎日動いていて、季節によって見える星が変わるのだとクロウから教えられたのは、錆の谷に住まうようになってすぐのことだったか。ほぼ毎日温泉から夜空を見上げる生活をするようになって、レイヴンは姉の話が正しいのを、やっと理解したくらいだった。 「兄もそう。ただそこに不明瞭なもの、不確定なものがあるから、どうしてなんだろうと探究してるだけだろうね。なぜなの、なぜなのと質問する子供と本質的には同じさ。そこに悪意はないよ」  地上では温泉の白い湯気の中、ジェイの言葉が淡々と続けられる。 「だから、人体実験を繰り返して犠牲者が出ても、兄は何とも思っていなかった」  なるほど、それでは追放もされるだろう。むしろよく追放で済んだと思うところなのかもしれない。 「じゃあ、今のジェイは兄のしたことの責任を取ろうって考えてるのか?」 「違う、復讐」  ジェイは温厚な顔でさらりと言う。 「は?」  あんぐりと口を開けたこちらの間抜け面が面白かったのか、ジェイは声に出して笑った。 「うん、復讐心。兄弟の責任だとか、犠牲者の仇を取りたいとかって、正義感に燃えてるわけじゃないんだ。ただ妨害したいだけ。その先に何があろうとどうでもいい」 「ノトルニスに暴力でも振るわれてたのか?」 「いいや」  否定して、魔術師はまた温泉の湯を弄び始める。 「私怨だよ。兄はいっつも目の上のたんこぶで、あいつさえいなければと子供の頃からずっと思ってた。本当にアルアトからいなくなるのは予想外だったけど、いなくなったらいなくなったで、僕まで不名誉を被った。ピジョンブラッドにも振られた」  一通り喋って湯の中で伸びをした後、ジェイはこちらの顔をまじまじと見てくる。 「……軽蔑するかい?」  レイヴンはかぶりを振った。 「世の中のためだの皆のためだのと、綺麗ごとを聞かされるよりは納得する」  本音だ。それに動機が何であれ、自分たちの役に立ってくれるなら構わない。 「いい温泉だね。ところで、君はどうなんだい」  湯が気に入ったのか、問うジェイは鼻歌交じりだった。 「湯なら、いつも通りだな」 「違う。クロウちゃんに嫉妬してたんだろう? 姉さんは魔術師なのに自分は違う、不公平だーって」  レイヴンはもたれかかっていた岩から滑りそうになった。嫌なところを突いてくるものだ。湯の中で崩れた体勢を戻し、半眼で湯気の向こうの男を見る。 「……昔の話だ」 「じゃあ、今は違うんだね。どうやって乗り越えた」 「これだよ。この体になって、諦めがついた」  滑りかかったせいでぐっしょり濡れた白い三つ編み。それをつまんで、顔の前で揺り動かす。示すものが髪だけではなく、三年前に変化した自分の体質全部だと、向こうも理解するだろう。  我ながら無様だと思う。こんなにぼろぼろになって、ようやくなのだから。  ジェイはレイヴンの白い髪の先から、湯の下の体までをざっと眺めた。彼の青い目は、いくらか憐れみを帯びていた。 「アルアトにいても実験動物のように扱われただろうね。かと言って、その体で君一人で生きて行けるはずもない。君を連れ出したクロウちゃんの判断は賢明だったと思うよ」  クロウのことを出されると、レイヴンは心が重くなる。三年前の事件から、姉はずっと自分のために動いているのだ。だったら、 「俺はクロウのために何が出来るんだろうな」  自分の口から、ぽつりと洩れたのが耳に入ったらしい。 「長生きすることじゃないかな」  ジェイは軽い声でいらえを寄越した。分かり切っていて、反論の余地のないことを。 「それが出来るなら……」 「うん、悩まないね。クロウちゃんが出て行けって言わないんだから、そばにいればいいさ。無償の愛情を満喫できるのが肉親のいいところだろう?」 「あんた自身が肉親の無償の愛情とは対極に向かってるだろ」  自己の矛盾を突きつけられたジェイは、悪びれもせずくつくつと笑った。 「そうだね。僕のは逆恨みだ」  彼は湯から細い腕を出して、天に向けて伸ばした。届かない星を掴むように、指先を動かす。そのうち冷えてきたのか、ぱちゃっと水音を立てて腕を湯の下に引っ込めた。 「星は遠いね」 「ジェイ。ノトルニスを追えば、これが元に戻るか?」  レイヴンはもう一度三つ編みをつまんで示した。 「……さあね。でも、兄は僕たちでは出来ないことができる魔術師だ。探す価値はあると思う。君がこのまま錆の谷で人生を終えるのが不満ならね」  ジェイの声はさらりとしたものだ。あっけらかんとして、穏やかな。  けれども、中身はこう聞こえる。探すのに協力しないなら、お前は近いうちにここで死ぬと。 「俺が死んだら、クロウは泣くだろうな」  ジェイが、穏やかな顔のまま残酷に同意してくる。 「だろうね。彼女の様子だと……最悪、君の後を追うかも」 「勘弁してくれ。俺のことなんて忘れて、楽しく生きてくれるほうがずっといい」 「それが出来るなら、クロウちゃんも悩まない」  同感だった。あの頑固で偏屈な姉は、柔軟に生きることなど出来ないだろう。不器用な女だからこそ、余計にいとおしいのかもしれない。  レイヴンは唇を噛んだ。この温泉は塩を含む。滑りかけたときに温泉の湯が顔にかかっているから、本当なら塩辛いはずなのだが、生憎自分のいかれた味覚は塩辛さを感じない。 「クロウちゃんが好きなんだね」  湯気の向こうでジェイがにやにやしている。ああ、と相槌を打った上で、レイヴンは相手の態度を疑問に思った。 「俺とクロウは姉弟だぞ。批判しないのか?」  余計な気でも回したか、ジェイは少しの間言葉を探す様子を見せて、緩やかに言う。 「当事者の君たちが悩んで悩んで、今の君たちがあるんだろう? だったら、他人の僕が口を出せることではないよ」  君たち姉弟の愛憎は認めるから、代わりに僕の兄への憎悪にも文句を言うな――そういう含みであったかもしれないが。  まあいいか、とレイヴンは思った。ジェイは自分にとって都合の悪い方向には動かないだろう。  ……そして湯けむりの中、ふと我に返った。どうして俺は男と長湯しているのかと。  レイヴンがざぶざぶと音を立てて湯から上がり、服を着始めると、岩の向こうでまだ湯に浸かっているジェイから、能天気な声が聞こえてきた。 「帰るのかい? ああそうだ、レイヴン君がクロウちゃんに出来ること、まだあったよ」 「何だよ」 「一途になること。レイヴン君が他の女に声をかけるのが気に食わないみたいだよ、クロウちゃんは」  ジェイの話は聞こえていた。けれども返事をせずに、着衣の終わったレイヴンは川原の石の上を走った。温泉から逃げ出すように思われたかもしれないが、気にしないことにした。 (3) 「クロウ!」  レイヴンは家に飛び込んで、転がる本を何冊も蹴飛ばし、姉の部屋の戸を開けた。 「な、何?」  机上で天秤を使い、粉を量っていた姉が、びくりとしてこちらを振り返る。驚いた拍子に、足元のかごを蹴って横倒しにしてしまった。 「ノトルニスを探す」  宣言するように、レイヴンは告げた。自分のせいでクロウが泣くのは嫌だ。ノトルニスという魔術師に、この体を治せる可能性があるなら賭けたい。  クロウは薬匙を持ったまま、目をしばたたいた。その後、こちらを真っ直ぐ見てくる。 「……もう、とっくに探し始めてる。ジェイには前々から、探してもらってる。あの薬がばら撒かれてるなら、アルアトも多分、放置できない。動いてるはず」  打つ手は打っている。彼女はそんな顔をした。  この様子なら、魔術師の人脈で各所に連絡済みなのだろう。置いてきぼりにされた感覚がして、歯がゆい。  弟の顔に面白くないと出ていたのを気にしてか、クロウは薬匙を置いて、レイヴンに歩み寄って来た。 「レイヴン。焦らなくていい。待つことも大事。それより体を養生して」 「でも、あれから三年経って――」 「分かってる。減った月日は、無駄にしない」  レイヴンの胸に、クロウが頭を寄せる。それ以上何も言えなくなって、レイヴンは姉を無言のまま抱きとめていた。  温泉から戻って来たジェイが、部屋の前でわざとらしい咳払いをして帰還を知らせるまで。  □  翌朝、日が登った頃。  町に行く予定のジェイが一度姉弟の家を出た後、すぐ戻ってきた。別の客がここに近づいているという。またすぐに飛び出していったジェイが連れてきたのは、中年の男女だった。 「魔術師。左足だ。俺の左足を治せ」  玄関で、暑苦しく太った男が足の不調を訴える。男は杖を携えていた。 「医者の話では、足が死んでいると。こうなっては切るしかないと」  介助する痩せて細い女が答えた。妻だろうか。 「クロウにお客さん。途中までは馬車だったらしいけど、それでもここまで歩いてくるなんてね。誰かを使いに遣って、呼べばよかったのに」 「うるさい。待っていられないのだ。おい、便所はどこだ。川原でいいのか」  ジェイの話よりこの男の声のほうがうるさいと、レイヴンは思う。が、患者などこんなものだと姉に耳元でささやかれたので、黙っていた。しかし……ここで粗相をされても困る。レイヴンは渋々、外の便所まで、男の重い体を支えて連れて行った。  用足しが終わった男を連れて玄関に戻ると、ジェイと姉が寄ってきて、男の醜悪な左足を確認した。その後、魔術師二人は家の奥に入り、症状の話を始めた。レイヴンも傍で聞く。 「目が悪くなって、尿の回数が多くなって、夜中に水を飲み続けるって」 「典型的。どうする? 処置するならジェイのほうが向いてる」 「切って繋ぐ魔術は僕の専門だけど、紛争地でもないのに都合よく人間の手足が落ちてるわけがない。処置して成功するとも限らない……血縁だと成功しやすいけどね」  ジェイは玄関にいる介助の女をちらと見た。 「あれ、妹さんだそうだよ」 「あのおっさんのために足を切るのか?」  レイヴンは咄嗟に割って入った。介助の女はか細くて、上品な女だと思った。男に彼女の足が合うとも思えないし、男の治療のために彼女が体の一部を失う必要はない。 「まさか。レイヴン君も、そうかっかしないで」  ジェイは顔の前に両手を出して、横に振った。 「あの、兄は治るでしょうか」  中年の女が不安げに、こちらに声を寄越す。難しい顔になってジェイは応じた。 「僕も切るしかないと思う。もっとも、それだけじゃ済まないけどね」  クロウが後を続けた。 「本質的には、内蔵が悪くなって起こる病気。完治は難しい」  魔術師が出したのは、やはり患者の期待した答ではなかったらしい。中年の男の顔は、みるみるうちに赤くなった。 「使えない連中め! 帰るぞ!」  男は喚いて、乱暴に女の手を取った。もちろん、介助をさせるためだろう。女の目に恐怖が走ったのを、レイヴンは見逃さなかった。それでも女は文句の一つもこぼさない。  腹が立った。レイヴンは女の傍に寄って、男の手を払った。当然、男は不快をあらわにしてこちらを睨む。 「貴様、何をするんだ」 「あんたの体を支えてくれるんだ、少しは妹を大事にしろ……なあ、本当に、このおっさんを治したいのか?」  レイヴンとしては、この中年の女を不憫に思っての言動だっだが、 「失礼な。当然です。私たちは兄妹です。兄が心配なことぐらい当たり前でしょう?」  女は反発して鋭い声を出した。どうも怒らせてしまったらしい。気まずくなって、レイヴンは奥に下がった。  ぴりぴりした場をジェイが取り成し、客二人を玄関の外に出す。彼も今度こそ出立するようで、鞄を持った。 「さっきの人は医者に連れて行くよ。ニニって娘の家は医者だったよね。その上で、魔術治療するなら手伝う」 「ジェイ、ありがとう。助かる」 「どうってことないよ、クロウちゃん。ああ、レイヴン君」  何だろうか? 呼ばれたレイヴンは首をかしげる。 「さっきの、妹さんを庇った君は嫌いじゃない」  それだけ言うと、軽く手を振って、客の魔術師は出て行った。  また二人になった錆の谷の家。姉の、魔術器材と本と乾燥した草木が積まれた薬臭い部屋で、 「血縁は面倒だな」  ぽろりとレイヴンは口にした。無心に相手を助けたがるきょうだい。憎しみを向けるきょうだい。血が繋がっているからこそ助けたいこともある。血が繋がっているからこそ憎むこともある。 「人間はいろいろ」  レイヴンの隣に座って机に向かい、複数冊開いた本の横で紙に走り書きをするクロウが、片手をレイヴンのほうに伸ばしてきた。 「……そうだな」  穏やかに同意して、弟は姉の手に自分の手を被せ、きゅっと握った。  根を詰めてばかりでもよくない。後で果物の皮を剥いて姉に持って来てやろう。  (血縁の責・了) ■[chapter:7 夜明け前] (1)  レイヴンの夜は孤独だった。  昼間は姉のクロウが相手をしてくれるが、夜は寝てしまうからだ。  この家は自分と姉の二人暮らし。家のある錆の谷は、町からは少し離れている。姉が寝てしまうと、しんと静まり返った家の中で、ただ一人時間を潰して朝を待つ生活だ。  孤独に朝を待つのがどれほど辛くても、眠れない体質の自分に付き合せてはクロウが体調を崩してしまう。彼女を起こさないようにして、かつ、自分の退屈を紛らわそうと思うなら、二振りのナイフの手入れと訓練か、掃除その他の生活雑用か、あるいは川原の温泉に行くか。  ……そんな生活を、もう三年も続けてきた。  明かりの消えた姉弟の寝室。寝ているクロウの隣で、横になっているだけで一向に眠くないレイヴンが、夜明けまで何をしようかと考えながら寝台から起き上がる。すると隣の姉がもぞもぞと動いた。 「悪い、起こしたか?」  窓の隙間からわずかに差す光で、姉の輪郭がわかる。ゆっくり上体を起こしたクロウは、ぼんやりした様子で顔にかかった髪を払った。 「……少し目が覚めただけ。気にしないでいい。レイヴン、どこ行くの」 「外をぶらついてくるかと思って」  レイヴンは顎をしゃくって戸を示した。この暗い中、姉に自分の所作が見えたのかは分からないが。  三年前からこの体は、自然に眠りに落ちることがめったにない。寝付けないこちらの身を案じる様子で、クロウは声を絞り出した。 「眠れなくて辛いなら、睡眠薬はある」 「大丈夫だ」  寝台から下りようとしたクロウの手を、レイヴンは握って止めた。すっかり薬漬けの体になっているが、それでも疲労がひどい時以外は、眠ることまで薬に頼りたくなかった。  しかしクロウはレイヴンの手を払って、寝台を下りる。部屋を出るのかと思いきや、魔光灯のランプに近づいて明かりをつけ、また寝台の上に戻ってきた。 「私も、少し起きてる。目が冴えた」  明かりに照らされた姉の顔は、こちらを安心させるように微笑んでいた。  俺のことは気にせず寝ろと言って寝る気配ではない。寝台のふちに座り、脚に布を被せて、クロウは物思いをするようにゆるく瞼を下げた。 「レイヴンは覚えてる? 父と母のこと」 「あまり覚えてない」  隣に座るレイヴンは正直に返事をした。息子として不義理だと思うが、さすがに幼児のころの記憶は遠い。葬式も、近所の大人にもみくちゃにされたことは覚えているくせに、肝心の親の顔を覚えていない。クロウは泣いていて、自分の手を痛いほど握ってきたが、当時の自分は戸惑うだけだった。両親の死をよく理解していなかったのかもしれない。 「ああ、でも一つだけ」  両親のことで一つだけ、今でもはっきり覚えていることがある。親が死ぬ前だから、本当に幼いころの話だ。 「四人で出掛けた帰りだったか? 道で転んだ俺が一人で起き上がるまで、親父もお袋もずっと待ってた。置いていかなかった。クロウは……退屈そうだったな」 「……ごめん」  子供時代の姉を批判するつもりはない。今更気にしていないと告げて、話を続ける。 「親父とお袋が、立ちあがった俺の膝についた泥を払って、よく頑張ったねって。本当は放っておかないで、起こして欲しかったんだけどな」  レイヴンの口から思わず笑いが漏れた。しかし隣のクロウは笑わなかった。 「あのとき、私は親に聞いた。何で待つのって。私は、早く帰りたかった」 「親父とお袋の答は、レイヴンも大事な私たちの子供だからだ……だったな」  クロウは頷いた。魔術の素質のない子供でも、ちゃんと自分たちの子だと言ってくれたのだ。彼らの言葉は、今になってずしりと重く響く。魔術の素質を羨んだ結果が、白髪で感覚の狂ったこの体だからだ。 「家族だから一緒に家に帰るんだと、父と母は私を諭した。今でも覚えてる」  隣のクロウが、頭をレイヴンの肩に寄せてくる。  遠い記憶の中にある両親は温かい。もっとも、皮肉なことにその両親が、出先で帰らぬ人となってしまったのだが。 「なあ、風呂に入ってきていいか?」  レイヴンはクロウの頭上に手を乗せた。姉の長くて黒い髪を撫でると、気恥ずかしいのか彼女は照れたように顔を下に向ける。 「今日はもう入った。私もレイヴンも」  確かに二度目になるのだが、 「そうだけど、起きてるならもう一回浸かって来るかなって」  川原の露天風呂で一人時間を潰そうかと、さらに言えばその間に姉が寝付いてくれないかと考えていると、 「……行くなら、私も行く」  クロウはこちらの服の裾を握った。子供が、親に置いていかれるのを嫌がってするように。  深夜のメイリ川の横を、姉弟で歩いた。クロウが持つ魔光灯のランプで足元を照らしながらだ。今夜は雲が多く、月も星も隠れてしまった。  錆の谷に住んでいる人間は自分たちだけなので、治安はそこまで悪くない。ただ、ときどき野盗の類が紛れて来ることがある。魔術師狩りの襲撃に遭うこともある。夜中に眠れずにいると、家に侵入しようとした不審者の姿が見えて、そのまま荒事にもつれ込むことは何度もあった。  それを考えれば、自分は多少はこの姉の役に立っているのかもしれない。レイヴンは腰に吊った二振りに軽く手を触れた。  錆の谷はとうに春で、木々は既に花を終わらせて若葉を広げ始めている。日中は薪を運んだだけで汗ばむくらいに温暖だが、それでも夜はまだ風が冷たい。がらがらと音を立てて川原の石の上を歩いて、白い湯気の上る温泉に近づく。途中、転びそうになった姉を支えると、彼女は必要以上に強く自分の体を掴んだ。 「大丈夫か?」  尋ねると、姉は首を縦に振った。けれども体を放そうとしない。ランプを石の上に落として、夜の川原に固い音を響かせた。  自分より年上のくせに子供っぽいなと思いながら、レイヴンは落ちたランプを拾って姉の手に握らせた。  再び川原を歩き、温泉の匂いが鼻を掠めるほど露天風呂に近づいたとき。 「……ちょっと待て」  レイヴンは声を押し殺し、姉を止めた。周囲に誰かいる。それも複数。  昼間ならば温泉目当ての来訪者の可能性も考えるが、今は真夜中だ。善良で常識ある人間が、深夜にここまで来るとは考えにくい。  拾い直したランプの明かりが、姉の顔を照らす。彼女はこくりと頷いた。   (2) 『一閃。瞬刻。影と陰』  すぐさまクロウが編んだ魔術で、川原は閃光に包まれる。前方で、数名が小さく呻くのが聞こえた。  眩い光は刹那の間で、川原はまた闇に戻る。明かりはこちらの、魔光灯のランプのみ。  一瞬の魔術の光で炙りだされた人間が三人。全員男だろうとレイヴンは判断した。衣服は軽装だが、闇に溶け込むためか色は暗い。皆得物を下げている。一人、片目に眼帯をしている者がいた。 「あんたら誰だ?」 「……後ろが、錆の谷の魔術師か」  片眉を上げたレイヴンの疑問に答える気はないのか、男の低い声が問いの形で返ってきた。クロウが狙いの魔術師狩りだろうか――という推測を頭の片隅に置いておき、 「温泉に入りに来たんなら、少し待ってやるから早く入って帰ってくれ。こっちは女がいるから、あんたらに裸を覗かれるのはお断りだ」  三人がいる方向に向かって、レイヴンは横柄に言った。一応の、奴らの意向の確認だ。まさか本当に温泉目的で来たなんて、微塵も考えてはいないが。  向こうはどうもレイヴンの話を聞く気がないようで、三人ともが返事をしない。一人が数歩こちらに近づいてきて、足下の石がごろんと音を立てた。 「錆の谷の魔術師が、魔術の素質を与える薬について調べているそうだな」 「だとしたら、何?」  姉が警戒を孕んだ高い声を出す。 「我々の利益を害する。消えてもらう」  言うなり、闇からは敵意が溢れ出た。 『拡散。補そ――』  新たに魔術を編みかけたクロウの、魔光灯のランプに向かってひゅっと何かが飛ぶ。 「なっ!?」  固い音を立ててランプに命中したのは小石のようだ。はずみでクロウはランプを手から落としてしまい、放たれかけた魔術は形にならず霧散する。連中の一人が足下の石を拾って投げつけたのだろう。  今しがたの束縛の魔術について、クロウに聞いたことがある。あれは術者の影がないと発動しないのだそうだ。落ちるのが二度目になるせいか、石の上に転がったランプの灯は、かなり弱まっていた。ランプを一瞥したクロウが舌打ちをする。 「悪いが、こっちも多少は魔術について知識があるんでね」  闇の中から、先程とは別の男の声がした。 「白髪男。お前、魔術の素質を得ようとして失敗したそうじゃねえか。俺らに協力しねえか。お前の望み、叶うかもしれねえぞ」 「断る」  レイヴンは即座に拒んだ。闇の中から苦笑いが聞こえる。 「悪い条件ではないと思うがな」 「うるせえよ。さっきから耳が遠いみたいだからもう一度言ってやる。断る」  正面に向かって、レイヴンは語気を強めて吠えた。大事な姉に消えてもらうなどとのたまった連中に、協力などできるものか。いやそもそも、"魔術の素質の薬を調べられると利益を害する"とは、どういう集団なのだ? 魔術師ノトルニスか売人コウモリの、どちらか一方にでも繋がっているのか? 「そうか。だったら死体にして運ぶ」  闇から聞こえた声を合図に、金属の刃が鞘から抜かれる音がした。  服装で闇に紛れることは出来ても、川原を動くときに踏む石の音は消せない。  がらがらと足下を鳴らし、一人がレイヴンの至近に移動した。相手が足を踏み出すと同時に振り下ろした長い金属――剣の刃を、こちらも左腰の刃を抜いて受け止めた。接触から一旦翻った剣の刃は、レイヴンの頭部を狙って斬撃に変じる。それを、もう一度刃で食い止めた。 「クロウ、離れてろ!」  顔は剣使いに向けたままで、レイヴンは叫んだ。  明かりなしでも平然と仕掛けてくるとは、相手はよほど夜目が利くのだろう。両手持ちの剣で力任せに押し切ろうとする襲撃者が、闇に動きを阻まれる自分を軽んじてか鼻で笑った。  馬鹿にしてくれるものだ。頭に来たレイヴンが右手で相手の右腕を押し流し、即座に右腰の刃を抜く。体勢を崩しかけた敵手の左袖の上に、右の刃を旋回させ―― 「!」  奇妙だ。狙った手ごたえがない。ざくりと袖だけが裂けて石の上に落ちる。  レイヴンは石を蹴って数歩後方に下がり、至近で見えたものと自分が体感したことの食い違いに総毛だった。  この男には左腕がない。剣を両手持ちしていたはずなのに。 「クロウ、無事でいるな? 隠れてろよ!」  姉に呼びかけるが返事はなかった。残り二人の敵手がクロウを狙って動いているようだ。しかし女の悲鳴も、男の悲鳴も聞こえてこない。がらがらと、石の音が響くのみで。  内心で焦燥する。闇隠れの魔術でもこっそり編んでいて、無事ならそれでいいのだが…… 「……っと」 「余所見とは余裕だな」  相手が繰り出してきた刺突をかわし、続く斬撃をかわし、レイヴンはじりじり後退する。 「お前よりもクロウが大事なんだよ。それより、どういう腕なんだ。魔術の義手の一種か?」  レイヴンは男の袖の切り口を凝視した。なくなった袖の代わりに、緑色に淡く光る腕が見える。手首から先は手袋で覆い隠しているようで、見えるのは腕だけだ。 「教える義理はない」 「……まあ、そうだな」  敵の淡白な態度に、レイヴンは歯噛みした。確かに容易に口を割ることはなさそうだ。少しいたぶられた程度で、べらべらと属する集団のことを喋る風には感じられない。  それにしても、と思った。  魔術の光を伴う義手だ。おそらくこの男は魔術師だ。  姉や紅の魔術の威力を知っている身としては、魔術師を相手に戦いたくはない。だからこそ奇妙に思えた。  魔術師なら最初から魔術を仕掛ければいいものを、わざわざ剣を振り回している。 「手助けは不要だ。二人とも錆の谷の魔術師を探せ」  光る腕が露わになったためか、男が仲間に向かって叫ぶ。  この闇の中、腕は明確に相手の位置を示してくれる。こちらには都合がいい。  右側の刃を鞘に戻し、レイヴンは相手に近づいた。大振りに動く剣の刃をかわし、敵の懐に飛び込んで、左手の刃を横に回す。  斬撃は服と胸の表皮を裂いただけだが、相手は痛みで鈍く低く呻いた。手元がぐらついた隙に、即座に膝に蹴りを入れる。ここは川原。石がごろごろして足下は不安定だ。男は体を揺らつかせ、剣の先は標的たるレイヴンには定まらない。  レイヴンは素早く足下の石を拾い、剣の刃を避け、前方に屈んだ体の頭部を殴った。男は苦悶の声を上げて川原にうつ伏せに倒れる。レイヴンは石を捨てて自分の左刃をしまい、男の手から剣を奪って、首に突きたてた。 「ジグラス? おい、ジグラス!」  断末魔が耳に入ったようで、闇から別の男の動揺する声が聞こえる。ジグラスとはこの男の名前だろう。足下に倒れる男の左腕が放つ光は、徐々に弱くなってついには消えた。 「くそ、ジグラスがやられ……」 「どこに行くの」  真っ暗な川原の上を動く足音を遮るかのように放たれた、高い女の声。クロウだ。 『吸引。天蓋――』 「何だ? 水か?」  残る二人が、狙う先をレイヴンにするかクロウにするか、足を止めわずかに迷った間に、  『至る瀑布』  クロウの魔術で、一度に、大量の水が頭上から落ちた。 「がっ!」 「あ、熱い! この女……!」  立ち込める熱気からするに、天から落ちてきたのは水ではなく湯であったようだ。頭から大量の湯を被って、ずぶ濡れになった男のうち一人が憎々しげに声を絞り出す。 「湯……温泉から吸い上げたのか」  口からぺっと唾を吐いた音がした。温泉の塩辛い湯が口の中に入ったのだろう。連中の顔も体もよく見えないが、湯で火傷を負ったかもしれない。  残り二人だ。服が濡れた分、動きは重く遅くなる。しかも足下が悪い。思うようには逃げ出せまい。  レイヴンはジグラスの剣を手にしたまま、湯が落ちた方向に向けて言った。 「質問がある。お前らは何者だ。コウモリや、ノトルニスって奴を知ってるか」  男の一人が、馬鹿にしたように笑った。追い詰められているとは考えていなさそうな口ぶりで言い返してくる。 「さあな。誰のことだ? 知っていたとして、教えると思うか?」   (3)  こいつもジグラスとほぼ同じ考えらしい。しかし……言い切られてしまうと交渉にならない。 「答えないなら……」  声を発したクロウを、 「答えないならどうする? 錆の谷の魔術師さんよ。殺すか?」  敵が遮って嘲笑う。 「何をされても喋らないつもりか。その辺の小悪党とは違うな。お前らがどういう集団なのかは知らないが」 「魔術ってのはそれくらい魅力的なもんだ。白髪男にゃ分かんねえか」  闇の中だ。相手の表情は分からない。それでも感覚では、相手はにやにやと意地悪く口の端を吊り上げているような気がした。 「まあ、何だ。それでもよ」  ごとごとと、闇の中から石の音。正確には、石の上を体重が移動する音。 「ジグラスの仇ぐらいは討ってやるか」  咄嗟に剣を正面に構えたレイヴンに、声の主が斬りかかってきた。  金属の刃と刃がぶつかる音が、またも錆の谷に響く。 「レイヴン!」 「いい。クロウは来るな!」  声で姉を制止し、レイヴンは両手で剣の柄を握る。剣は久しぶりだった。扱い慣れた自分のナイフに比べて重い上、この闇、この足場の悪さが加わる。石音と刃鳴り、息遣いで相手を把握し、一合、また一合と打ち合う。剣同士が接触したときに相手に力任せに押されて、ぐらりと体が揺れた。もたついたところを狙って、自分の左腕に相手の刃が、一振り。 「……っ」  相手の刃がざくりとレイヴンの肉を斬り、袖がじわじわと濡れていく感じがした。血が染みていくようだ。だが今は己の怪我を気にしている場合じゃない。  痛みを感じない体にこのときばかりは感謝をしつつ、レイヴンは握った剣をすっと横に回した。 「ぐっ?」  苦悶の声を上げ、相手は後退する。油断はできない。手の感覚では、表面しか斬れていない。 「ってえ。あーあ、この俺の顔をキズモノにしやがって」  数歩先から悪態をつくのが聞こえた。おぼろげな緑の光が、敵手の顔を浮かび上がらせる。  眼帯をしていたのはこの男だったようだ。切れた紐の下に、緑色に光る右眼があった。人間の生来の目ではない。これは…… 「……魔術の、義眼?」  レイヴンは思わず、声に出していた。  体の内で何かぞわぞわするものがあった。  得物を手に暴れる男どもだ。普段から外傷は多いだろう。だから偶然の一致がないとは言わないが――  二人ともが身体を一部欠損していて、しかも欠損を魔術で埋めている。 「ジグラス一人犠牲になっても、てめえらは殺っとくべきだと思ったが……こりゃ思ったより分が悪い」  声の主の義眼男が、川原を移動する。義眼の光が、闇夜の中を飛ぶ羽虫のように動いた。奴が軽く叩くか蹴るかしたのか、もう一人の男があうあうと、言葉にならない声を上げる。  レイヴンが義眼男を追いかける途中で、 『騒鳴。轟。山地、一円』  男の声で魔術が放たれ――川原が轟音に包まれた。  がらがらがらがら、がらがらがらがら、がらがらがらがら!  がががががががが、がががががががが、がががががががが! 「ぐ、ああ!」  レイヴンの唇から、悲鳴めいた声が漏れた。  耳障りなんてものじゃない。岩が崩れるときのような音だった。それも、とてもとても大きな。  天も地も揺るがすような崩落の音が、他の全てを飲み込みかき消す音量で、錆の谷中に唸り響いた。  剣を放って両耳を塞ぎ、数刻騒音に耐えた後、音は鳴りやんだ。あの魔術は岩を呼ぶものではないようだ。ただ音のみを生ずる魔術らしい。  「……逃げたか」  脂汗の浮かんだ顔で、レイヴンは嘆息した。足音消しが目的だったのだろう。鳴り響く騒音が消えたと同時に、襲撃者の気配もまた失せている。  寂静の戻った錆の谷、メイリ川の川原には、ジグラスの死体とクロウレイヴンの二人がぽつんと残っていた。  川原に落ちたランプを拾って、クロウがレイヴンのそばにやって来る。明かりはごくわずかに照らすのみだが、今は深夜だ。ないよりはずっといい。 「クロウ、無事か」 「私は大丈夫。ごめん、音の魔術を撃ってくるのは読めなかった。レイヴンは」  俺も大丈夫だ、と返して、クロウの顔色が変わった。レイヴンの腕の傷に気がついたらしい。負傷した弟が平然としているのが気に入らないらしく、彼女は眉を吊り上げる。 「すぐ家に戻る。手当てする」 「……分かった。頼むよ」  レイヴンは怪我のある左手の二の腕を押しながら、姉の後から川原を歩いて家に戻った。  家に帰ると、傷を縫われ、薬を塗られ、ぐるぐると布を巻かれた。  玄関での処置の後、器具を置いた横でこちらの顔を覗きこむクロウは、無言のまま険しく口元を引き締めていた。  レイヴンは視線を落とし、今夜の襲撃者たちについて思案した。クロウがしているのがどうでもいい調べものなら、放っておけばよいのだ。あの連中が暗殺を考えたのは、つまり。 「……魔術の素質の薬のことは、よほどつつかれたらまずいんだろうなってことは分かった」  ぐるぐる巻きになった自分の腕に一度目を遣って、それから姉のほうを向く。 「あいつら何で剣にこだわったんだろうな。魔術が使えるなら魔術で襲えばいいだろうに」 「多分、同時に複数の魔術を展開できるほど力を有していなかった」 「そんなに貧弱だったのか?」  レイヴンが問う。この点はクロウも考えが今一つ定まらないようで、返答まで少し間が空いた。 「魔術よりも剣の方が殺傷が得意だったのかもしれない。何にしても、詳しいことは当人たちでない限り分からない。少し休んでから死体を調べる。やる価値はあると思う。私は、紅ほど得意じゃないけど」 「あれをか」  姉は頷いた。襲撃者二人は逃げるのに必死で、ジグラスを川原に置いていった。彼女はそのジグラスを捌いて中を見ようと考えている。 「死人に口なしとは思わない。死者は雄弁。しかも生者のように嘘をつかない……紅はよく言ってた」  一呼吸置いて、決心した様子のクロウはもう一つ告げる。 「その後は、アルアトに行く。さすがにこの状況は、大人しくしていられない」 「クロウ……」 「行くだけ、だから」 「分かってるよ。ここがクロウの家だ。クロウの帰る場所は錆の谷だ」  念を押す姉に、レイヴンは同調して言った。姉がアルアト時代の生活を好いていないのは知っている。能力ある者は相応の場所で相応の働きをすべきと考える紅の魔女は不満だろうが、クロウ本人がアルアト外で過ごすことを望んでいるのだ。無理にあの街に押し込めることはない。 「一緒に来てくれる?」 「当然だ。俺はクロウから離れないよ」  レイヴンはすぐに答えた。言われなくてもそのつもりだ。姉を一人にはしない。それにこの件が、コウモリやノトルニスに繋がるなら、この苦しい体の原因を作った人間を追い詰められるなら、この体が治るなら――もちろん自分は動くし、協力を惜しまない。  アルアトに行って帰ってくるころには、クロウの魔術ですっからかんになった温泉の湯船にも、湯が戻ってくるだろう。 「ありがとう、レイヴン。一緒に行って、一緒に帰ろう」  ずっと固かった姉の表情が、このときやっと、ほころんだ。  クロウが、白い指を伸ばしてレイヴンの服の裾を握ってきた。姉はよくこれをする。いい年して子供じみた仕草だと弟のレイヴンは感じるのだが。 「まだ何かあるのか?」 「ベッドに横になって、安静にして欲しい」  ……養生しろこの怪我人めと思っているようだ。レイヴンは苦笑した。 「分かった。クロウも疲れてるだろ。休んでくれ」 「一緒に寝て」 「いつも一緒に寝てるだろ」  本当に、姉は変なところで子供っぽい。  クロウに引きずられる形で、レイヴンも寝室に戻った。  疲れていたからか、すぐ寝てしまった姉の横で、眠れないレイヴンは寝転がりながら窓の隙間を見ていた。外が白み始めて、屋内よりも明るいのだ。  もう少しで、夜が明ける。    (夜明け前・了) ■[chapter:8 ノトルニスの幻影、アルアトの罪] (1)  錆の谷を出て馬車を乗り継ぎ、魔術都市アルアトに着いたのは初夏の日中のことだった。  旅荷物を抱えて、レイヴンとクロウの二人は街の入り口の門にいた。久しぶりのアルアトだ。石畳の上にはいたるところに魔術師がいて、これから出立かそれとも帰還したのか、荷物を路上に置いて話し込んでいる。この汗ばむ陽気にもかかわらず、誰も彼も長い髪と長い裾の服でだ。魔術師の定番の格好は、今の季節は見ているほうが暑苦しい。 「ああ、向こうに女の子がいるな」  レイヴンは、白い商家の前で花木を眺めている数人の少女を見遣った。 「……レイヴン」  そばのクロウが――この姉も魔術師らしい服装だから暑苦しく見える――苛立たしげに弟の名を呼ぶ。 「ばあさん、若い頃は美人だったんだろうな」  レイヴンは、今度は己の付近をゆっくり歩く老婆に視線を移す。 「……レイヴン」 「ほほほ、お兄さん、聞こえていますよ。隣の方がおかんむりですから、ほどほどになさいね」  独り言のつもりが当人に聞こえていたようだ。老婆はくすくす笑って、姉弟の前を歩き去って行く。レイヴンは隣の姉をようやく見た。何もしなければ綺麗な顔なのに、子供のように頬を膨らませている。 「人の多い所に来たら、すぐこれ」  姉はこちらの様子が気に入らないらしい。視線にも口ぶりにも棘がある。 「そう言うなよ。街中は久しぶりなんだ」  錆の谷で暮らしていたときも、近くの町に用があってもレイヴン一人では行かせてもらえなかった。どこへ行くにも姉がべったりだった。クロウ曰く、よその女について行っては困るから、らしい。もう少し信用してくれてもいいのに。  荷物を足下に置いて、クロウとレイヴンはたわいない話をしながら時間を潰していた。待ち合わせの場所をここに指定したので、勝手に移動するわけにはいかない。  まだ来ないのか、来ないなら近くにいる女の物色を続けるかと思っていると、 「クロウ!」  聞き覚えのある声が姉を呼んだ。待ち合わせの相手、紅の魔女ピジョンブラッドだ。肩書き通りの赤い衣服で、にこにこしながら近づいてくる。 「会いたかったわクロウ。クロウの弟も、クロウをここまで連れて来てくれてありがとう。それで、連絡をくれたあれは」 「紅、私も会いたかった。詳細は道でする話じゃない。家に入れて」  大事な荷物を引っ掴んで、クロウは紅に頼んだ。  紅が乗ってきた真っ黒な馬車に、レイヴンとクロウも乗せてもらう。行き先は紅の家だ。  馬車は町の入り口から、中流の住宅街を通り過ぎ、さらに奥の上流住宅地に入った。道には石を敷いて細かに模様が描かれており、庶民の住まう地区とは格差がある。蔦の這う石壁の向こうには広い邸宅がどっしりと構えていた。一軒だけではない。何軒も何軒も、見る者を威圧するような壮麗な屋敷が建ち並んでいる。  こんな機会でもなければ自分には全く縁のない場所だなと、レイヴンは内心で独りごちた。この一帯を見れば、貧しい人間が魔術師を逆恨みして魔術師狩りに走る心情は理解出来る。もちろん、ここで生活が送れる魔術師はごく限られているのだが。  今、姉と話をしている紅の魔女は、その限られた魔術師に該当する。紅の家は魔術都市アルアトの名門の一族だ。彼女の祖父は、この街の政治機構である長老会の一員なのだそうだ。  基本、人当たりのにこやかな彼女だが、今日は表情が複雑だ。  レイヴンは足下に置いた荷をちらと見た。  この荷物については、紅にあらかじめ連絡してある。紅と、紅の祖父に確認してもらうつもりで、わざわざ錆の谷から運んできたのだ。防腐に気を遣って。  何軒もの豪邸の前を通り過ぎた後、馬車はある家の門の前で止まった。姉弟は紅と共に馬車から下り、荷物を抱える。門の警備をする男に、紅は尋ねた。 「御苦労さま。おじいさまはいるわね?」 「中でお待ちです」  男が開けた門をくぐり、紅に案内されて、レイヴンとクロウは屋敷の中に入った。 「……よく来た」  白い石造りの玄関で姉弟を出迎えたのは、長い白髪の老人だった。小柄で、頭蓋骨に皮が張り付いただけのような痩せこけた顔だが、背筋はぴんと伸びている。眼光は鋭く、老いを感じさせない。灰白色のローブは細かい柄があり、そこらの魔術師の服より布地も仕立てもずっと上だ。  この老人が紅の祖父なのだろう。クロウが進み出て、彼に簡単に挨拶した。それから本題について話しかけ――止めてしまう。 「アウル老、ここでは汚れる。部屋を借りたい」 「ついて来たまえ」  老人は尊大に言うと、踵を返して屋敷の奥へ歩いていく。姉弟は一度顔を見合わせた後、荷を担ぎ直して彼の後を歩いた。最後尾に紅がいる。レイヴンがちらと背後を振り返ると、彼女はどこか訝しげだった。自分の後姿に惚れた様子ではない。残念だ。  連れていかれた先は応接間だった。皮張りの椅子も、毛が長く踏むとふかふかする絨毯も、水辺を描いた風景画も、皆調和して雰囲気がいい。確かに客人を接待するに向いた部屋だとは思うが、 「アウル老、ここでするような綺麗な話じゃない」  部屋に通された姉は、困ったように老人を見る。彼女が期待していたのは、もっと汚れた……というか、魔術の器材を使う部屋だったのだろう。 「おじいさま、私もそう思うわ」 「わしはここで構わん」  けれどもアウルという名の老人は場所を変えようとしない。どかりと椅子に腰かけてしまう。  クロウは諦めた風で老人の向かいの椅子に座り、持って来た荷物の中から箱を取り出した。レイヴンは姉の横、紅は祖父の横に座る。 「先日、私と弟は暴漢に襲われた。これはその暴漢の体の一部」  クロウは箱を開けて、中身を示した。錆の谷に来た三人組の一人、ジグラスの上腕を防腐して持って来たのだ。あの部分から下の腕は、レイヴンの知る限り、ない。 「この男が生きていたときは、ここに魔術の義手があった」  クロウが机上に置くと、紅は身を乗り出して興味深そうに眺めた。老人は一瞥したきり動かない。 「内臓も一通り見た。汚れたら困るから、ここでは出さない。けど」  老人の前の机に、紙の束が置かれる。束の一番上には、人の形をした図と走り書きの注釈。錆の谷でクロウが書いたものだ。  老人は紙の束を手に取ると、一枚一枚めくった。大体の内容を把握したのか、紙の束を再び机の上に置く。それから黒い目をクロウに向けて、じっと睨めつけた。彼の正面に座っていた姉は、まったく臆さずに話を続ける。 「生まれついての魔術師に存在する特徴は、この体にはない。魔術の素質を持たずに生まれた人間を、後天的に魔術師にする技術が存在――」 「魔術師クロウ。正気で言っているのだな?」  老人が遮った。クロウは頷く。 「今までの常識が覆る。でも他に結論が出ない」 「このようなもの、にわかには信じられん」 「私は、ノトルニスがアルアトでしていた研究との関連を疑ってる」  ノトルニスの名前に反応して、老人の眉がぴくりと動いた。ただでさえ愛嬌のない顔を、より厳めしくする。 「奴の名を出すな。この街で、どれほど忌避されるか知っているだろう」 「疑わしいなら探るしかない。たとえアルアトが闇に葬りたい過去であっても」 「……ふむ」  同意とも猜疑とも知れぬ老人の感嘆詞から、しばらく無言の時間が流れた。鈍い反応に思えた。もっと食らいついてきてもよさそうなものなのに。隣の紅が好奇で目を輝かせているのとは対照的だ。  埒が明かないと判断したのか、クロウが腰を上げる。 「あなたが動かないのなら、私は他を当たる。レイヴン、行こう」  レイヴンは姉に同意した。得るものがなさそうだ。上腕や書類をしまって荷を持ち上げると、ようやく老人は顔を動かした。 「その標本、わしが預かろう」 「私が持つ。明日別の人に見てもらう。アウル老、お邪魔した」  クロウに続いて、荷を抱えてレイヴンが部屋を出る。後ろから、紅が慌てて出てきた。  紅の家の馬車に繁華街まで送ってもらうと、もう夕方だった。露店で惣菜を買い、屋外の長椅子でクロウが食事をするのを、レイヴンは隣で見ていた。自分は食欲がないので、宿を取ったら姉から栄養剤をもらえばいい。  その宿だが、しばらく街を彷徨った末、三年前に泊まった安宿になってしまった。部屋は当時とは別だが、間取りは同じだった。さすがに今夜は、隣の部屋の客が頑張っていちゃいちゃすることはない……と思いたい。 「紅の爺さん、クロウの話をまともに聞く気がなかったんじゃないか?」  荷物を部屋の隅に置いて、レイヴンは寝台に寝転がった。証拠品も書類も持って行ったのにこれでは、準備して訪問した姉が報われない。 「ノトルニスの話に関わって、立場を悪くするのが嫌なんだと思う。仕方ない。明日は昔の職場に行く」  姉の声を聞きながら、レイヴンはふと視線を感じた。窓の外からだ。起き上がって窓に近づくと、女の姿が一瞬見えて、消えた。姉が首をかしげたので、レイヴンは正直に話す。 「女が外から俺を見てたんだ。もういないけど」  クロウは呆れ顔でため息をついた。 「今は晩。しかもこの安宿に泊まる客を、どんな理由で覗くの」 「俺が美男だからじゃないか?」  冗談めかして言うと、 「……自意識過剰」  彼女はますます呆れたらしい。寝台に横になって、早々に掛け布を被ってしまった。 (2)  幸いなことに、この夜は隣の部屋は静かだった。残念なことに、晩に見かけた謎の視線の女が訪ねてくることもなかった。  平穏に夜が明けると、夜間寝ていないレイヴンが寝ていたクロウを起こし、身支度を済ませ、荷物を抱えて宿を出た。 「クロウはアルアトの生活が好きじゃなさそうだったな。仕事がきつかったからか?」 「それもあるけど……合わなかった。アルアトの風潮が」  朝日の差す石畳の道を姉弟で喋りながら歩き、クロウのかつての勤め先――研究所の前に行くと、三年前と同じ門番がいた。クロウが近寄って、訪問の理由を説明する。  しばらく待つと、門の奥から魔術師が現れて、姉弟を中に入れた。 「……驚いた」  建物の一階、魔術の器材の並ぶ部屋。クロウから事情を聞いた中年の魔術師が、呆然として口を動かした。彼の地位をレイヴンはよく知らないが、この建物内では、おそらく上から数えたほうが早いだろう。  木製の机の上には、クロウが書きつけた紙の束と、ジグラスの体の一部が置かれている。それらクロウの提出品を、中年の魔術師の部下と思われる若い魔術師たちが、困惑と驚愕の表情で次々と手に取り目を通していた。若い魔術師たちの中には、三年前にレイヴンの体をあれこれ検分した顔もあったが、レイヴンは気にしないことにした。  若い魔術師の一人が、紙の束を机に置いて首をひねった。 「部長、アウル氏はなぜ取り合わなかったのでしょう? これ……ひょっとすると歴史が変わりますよ」 「分からん」 「ノトルニスを嫌がったのかもしれない」  姉が横から口を挟むと、部長と呼ばれた中年の魔術師は合点がいったように頷いた。 「ああ、ノトルニスの話に関わりたくないのかもしれんな。あの御仁は、恋仲だった孫娘とノトルニスの弟を別れさせたくらいだ」  中年の魔術師が、無精髭の生えた顎を掻く。 「しかしなあ……こいつが本当にノトルニスの仕業なら、アルアトの中では出来なくなった研究を外で続けてるわけだ。大した探究心だよ。被害さえなけりゃな」 「おっさん、一ついいか?」  脇にいたレイヴンが声を上げた。部長をおっさん呼ばわりとは失礼な奴だと、歯をむき出しにして怒りだした若い魔術師を、当の中年の魔術師が制する。何かあるなら言えと視線を送ってきたので、レイヴンは質問した。 「ノトルニスとか言う魔術師、よく追放で済んだな。要は生きたまんま逃がしたわけだろ?」  ずっと疑問だった。容易に出られない場所に監禁される、あるいは殺されるなら分かるのだが。 「当時、ノトルニスをどう処するかは揉めた。飛び抜けて優秀な魔術師だったから、上の判断で死は免れたってのが通説だが……それも噂話でしかない」  中年の魔術師はひらひらと手を振った。その後クロウのほうを向き、机をばんと叩いて言った。 「で、だ。魔術師クロウ、どうする。こいつはでかい。でかい問題だ」  彼はクロウを見据え、不謹慎にさえ思えるにやりとした笑みを浮かべる。  若い魔術師たちの注目が一斉にクロウに集まる。部屋にいた全員が黙した中、クロウは少しの間考えを巡らせるようにして、それから高い声を出した。 「……"アルアトにとって"解決が必要な問題は、三つ」  喋りながら指を折って、数を示す。 「一つ目。各地にばら撒かれてる、薬の危険性の周知。報告はこれまでにもいっぱいアルアトに来てるはずだけど、もっと取り締まらないと意味がない」  クロウは魔術師たちを見回して、続けた。 「二つ目。薬を作ってる……疑いが強いノトルニスの居場所を突き止める」  クロウはもう一度、魔術師たちを見回した。 「三つ目。魔術師でない者が魔術の素質を得る、その技法の解明」  クロウが話し終わると、横で聞いていた中年の魔術師が鼻を鳴らして腰に手を遣った。 「だな。よし、俺も他の研究所や学校の連中に協力を依頼しよう」 「……ありがとう。私、自分の都合でここを辞めたのに」  遠慮がちに礼を言う姉に、中年の魔術師は笑い返した。 「この件が片付いたら帰って来るんだろ? 出来のいい魔術師には頑張ってもらわないとな。おいお前ら、アルアトの一大事だ。今の案件を続けるか、放置してクロウの持ち込んだ難題に取り組むか、どうする?」  呼びかけに応じて、若い魔術師たちが中年の魔術師の周りに集まり、話し合いが始まる。圧倒的多数でクロウの難題に決まりそうだが。  クロウは輪から外れていたレイヴンに近づいて、服の裾を握った。こちらにだけ聞こえる小声で呟く。 「私が真に解決したいのは、三つのどれでもない。もっと身近……」  荷を担いだ姉弟が建物の外に出たとき、門のところで誰かが質問を受けていた。布で顔を隠した細身の男だった。奇妙に思っていると、向こうがこちらに気がついて、手招きしてくる。 「クロウちゃんとレイヴン君だよね? よかった、ここには足を運ぶと思ってた」  姉弟が彼の近くに寄ると、布の下にはぼさぼさの長い金髪が見えた。この声、この顔は。 「ジェイ? 何だよその被り物」 「錆の谷の家に貼ってあった紙を見て、慌ててアルアトに来たんだ。これは、この街だと僕の顔を嫌う人がいるから」  ジェイは、頭の上から被った布を軽く引っ張って示した。花柄の……女物の布地だ。正直不審者に間違われても文句が言えない格好だが、彼は兄のノトルニスに似ているせいでアルアトでは苦労するということだから、なりふり構っていられなかったのかもしれない。それにしても、布を選べと思うが。  出戻りになるが、クロウとレイヴンはジェイを連れてもう一度研究所に入った。先程の部屋で人払いをし、ようやく頭の布を外したジェイに、紙の束やジグラスの一部を見せながらこちらの状況を説明する。 「じっくり確認したいものがいっぱいあるね。アウル老は気にならなかったのかな……?」 「紅の爺さんを恨んでるか?」  声を沈ませたジェイに、レイヴンは率直なことを問うた。中年の魔術師が、アウルが紅とジェイを別れさせたと言っていたからだ。ジェイは苦笑した。 「アウル老のことは、うん、まあ、苦手だよ。ピジョンブラッドのことですごく怒られた。でもそれとは別に、ちょっと気になることがある。クロウちゃん、ピジョンブラッドに今すぐ連絡取れる?」  所内に勤めていた魔術師に、紅の家まで使いに走ってもらった。来るのを待っている間、姉弟はジェイから話を聞いていた。その中にニニのこともあった。彼女は元気にしているという。 「ニニちゃんの買った薬だけど、兄の手によるものではなさそうだ。だけどただの毒薬でもない。兄の真似事をしている魔術師がいるんだと思う。賛同者というか協力者というか」  レイヴンの隣のクロウは、ジェイの話をじっと聞いている。 「不穏な薬をばら撒いてることには変わりないけどね。薬を試させて、結果が欲しいんだろう……と」  唐突に、部屋の戸が開いた。入室した豪奢な美女は、レイヴンの前にいたのっぽの男を見るなり顔をひきつらせる。 「……ジェイ」 「やあ、久しぶり」  ジェイがへらへらした攻撃性のない顔で呼びかけると、 「『やあ、久しぶり』じゃないわよ! クロウに呼ばれて慌てて来たら、あなたに会うなんて」  途端に美女――ピジョンブラッドは刺々しく叫んだ。レイヴンはこの二人の詳しい事情は知らないが、紅がジェイにただならぬ文句があることだけは伝わってくる。ずかずかと大股でジェイの正面まで来ると、紅は青い目に不満をたぎらせて彼を睨みつけた。いつ平手打ちを食らわせてもおかしくない気迫だ。 「今まで何をしてたのよ。私は、おじいさまの意向に従ってから、ずっと――」 「いろいろ、ごめん。でも積もる話をしてる場合じゃないんだ。君の家に入れないか」 「どういうこと?」 「魔術師の存亡に関わる事案が動いてる。アウル老と話がしたい」 「そんな規模の大きい話を信じろって言うの?」 「規模が大きすぎるかい? それならこう言うよ。兄を追い詰めたいから協力して」  ジェイの口調はさらりとしていた。彼を睨みつけていた紅から、ふっと怒気が抜ける。感情が悲しみに変じたらしい。きつく握りしめた両の拳が震えていた。 「……あなたは本当に、自分の都合ばっかりね」 「クロウちゃんやレイヴン君のためでもあるよ」  紅は、自分たち姉弟のほうをちらと見た。すぐに視線をジェイに戻す。 「クロウやクロウの弟に都合のいいことを並べ立てて、自分の仕返しに利用するつもりじゃないの?」  ジェイは答えなかった。何を言っても今の紅には通じないと考えたのか、図星で返す言葉がなかったのかは分からない。しかし紅は、後者だと受け取ったようだ。泣くのを堪えているような、押し殺した声を出す。 「クロウ、ごめんなさいね。気持ちの整理がつかないの。せっかく呼んでくれたけど、帰らせて」 「……私もごめん。紅の気持ちを考えればよかった」  踵を返した紅の魔女は、乱暴に戸を開け、靴の音を響かせて部屋から遠ざかっていく。レイヴンは紅を追おうとしたが、険しい顔の姉に服を掴まれ止められた。  交渉決裂だ。ジェイはきまり悪そうに、頭を掻いた。 (3)  夜になった。周囲の山からアルアトに風が吹きおろし、汗ばむ日中よりもいくらか涼しく過ごしやすい。  アルアトの上流住宅街、紅の家の裏手。レイヴンはクロウとジェイの三人で、周囲を窺っていた。得物も腰に吊っている。 「忍び込むまでする必要があるのか?」  屋敷に入るのはジェイの発案だ。君たち二人にも来てほしいと頼まれ、姉弟も同行している。 「どうしても確認したいことがある。僕はアウル老に嫌われてるから、ピジョンブラッドに頼れないなら強行突破しかない。この家の間取りは大体覚えてる……頼むよ」  勝手口に人がいないのを確認し、レイヴンは鍵をこじ開けた。魔術の錠でなかったから、開錠には昔覚えた技が使えた。それから足音を立てないようにして入り込む。ジェイの言葉通り、彼の案内で、三人は屋敷の中を迷うことなく移動する。二人の魔術師に反応して、明かりが自然と点灯した。  ジェイの目的地は魔術の作業場だった。無骨な石がむき出しになった壁に、飾り気のない木製の机。部屋の使用目的を考えれば当然であるが、綺麗な屋敷の中にあるにしては粗雑な空間だ。壁の横には大型の器材が備え付けられ、棚にはこの家の主が作ったらしい薬剤が瓶に入って並べられていた。あまり換気をしないのか、部屋全体に薬品臭が漂う。  ジェイが薬の棚に近づいて、親指で指し示した。 「クロウちゃん。ちょっと見てくれる? この魔術の編み方はピジョンブラッドじゃないよね」 「紅のはよく見せてもらったから分かる。紅じゃない。多分アウル老。でもこれ、どこかで……」  同じく薬に近づいたクロウが、記憶を辿るように口元に手を遣ったとき、 「誰だ!」  部屋の入り口から老人の烈しい声が響いた。アウルだ。明かりで侵入者に気がついたのだろうか。  ジェイは人差し指を立てて口に当て、黙って棚の陰に隠れていろと姉弟に指示した後、 「アウル老。私ですよ」  返事をして平然と老人の正面に出た。ジェイの姿を認めたアウルは、部屋に入ってくる。 「っ?」  レイヴンは喉から出かかった声を押し殺すのに努力を要した。ジェイは何をして―― 「ノトルニスか。許可なくわしの家には来るなと言ってあるだろう」 「近いうちに、器材を増やしたいのです」  冷や汗をかきながらジェイとアウルの会話を聞いていたレイヴンは、やっと理解する。  ジェイは風貌が兄に似ているのを利用して、堂々と兄を騙っているのだ。 「金の工面はやぶさかではないが……いや、待て」  アウルはジェイの顔を凝視し――何かに気づいたように言葉を失った。しばしの間の後、怒りで顔を赤くする。 「……貴様、弟のほうだな。今更何をしに来た。わしの孫を連れ去るつもりか」  正体がばれてもジェイは狼狽えない。毅然としたまま、姉弟に目くばせする。 「それはまた後々。今はあなたが兄と共謀している……その言質がとりたかった。クロウちゃん、レイヴン君」  呼ばれて、二人は物陰から出た。アウルは姉弟の姿を見て笑い出す。からからとした笑い声とは裏腹に、自嘲が多いに含まれている気がした。 「下らん芝居に引っかかったものだ。わしも耄碌したな」 「兄がいくら優秀でも、一人で作って一人で配れるわけがない。材料も器材も人手もいる。援助している人間が絶対いると踏んでいたよ」  レイヴンは今までの話を頭の中で要約した。つまり、 「この爺さんはノトルニスとグルだったってことか?」 「そうなるね」  ジェイはさらりと、レイヴンを肯定した。  こつん、と靴音がした。廊下からだ。音に反応して戸のほうを振り向くと、紅が姿を現す。どうも覗き見していたらしい。老人に近づく足取りは弱く、綺麗な顔は色を失っていた。 「おじいさま、どうして……」 「魔術師を増やすためだ」  孫娘の視線が辛いらしい。老人は紅から目をそらし、力なく答える。 「魔術師の人口は減っている。数十年、いや百年単位でだ。魔術師狩りどもの犠牲は増え、魔術師同士の間でさえ魔術師の子供が産まれないことがある。このままでは減少は続くだろう。魔術師が減ってはアルアトの自治が維持できぬ。魔術師が足らぬのでは、他の勢力に容易に支配されてしまう」 「だから、人工的に魔術師を増やすために、ノトルニスを支援した……?」  重い面持ちでクロウが問いかける。彼女に答えるというより、己の主義を宣言するようにアウルは言った。 「わしはこの街の魔術師。そして長老会の一員。アルアトを維持せねばならぬ。わしはこの体が潰えた後も、この街が続くことを願っておる。手段を選んでいる場合ではなかった」  アルアトはそうまでして維持しなければならないのか――レイヴンは口にしかけたが、結局飲み込んだ。愚問だと思ったからだ。この老人にはきっと、維持する価値があるのだから。  レイヴンはジェイを見て、別の疑問をぶつけた。 「アルアトの金持ちの魔術師なら他にもいるだろ? どうして紅の爺さんが怪しいと思った?」  彼は懐から薬包を出した。 「これ。ニニちゃんの買った薬。古風で、上手い魔術の編み方に見覚えがあったんだ。さっきそこの薬棚を見て、確信に変わったよ」  ニニが錆の谷の家に来た時のことを思い出す。あれは確か、クロウでさえ厄介に思った薬だ。 「戯れにノトルニスの真似事をしたことがあった……失敗作として捨てたつもりが、まさか外で使われていたとはな」  老人は息を吐いて、長い白髪の上から頭を押さえる。頭蓋骨に皮を張ったような痩せた顔には、疲れが浮かび上がっていた。  追放されたはずの魔術師を密かに支援し、薬の被害を拡大させたアウルの処分は、アルアトが下すだろう。この老人がノトルニスを援助しなければ、自分の体はこんなことにはならなかったかもしれない。そう考えると、レイヴンは内心沸々とこみ上げてくるものがあった。だが、今は恨みをぶつけるよりも優先することがある。 「アウル老。ノトルニスの居場所を教えて」  クロウは尋ねた。 「何のために知りたいのだ。奴を捕らえて殺すのか」 「違う。レイヴンを治したい。私は治し方をずっとずっと探してる」  レイヴンはアウルの前に出て、彼の背に合わせて屈んだ。三年前のことを簡単に説明すると、アウルは憐憫を帯びた目でこちらを見てくる。患者を診るようにレイヴンの腕を取り、目元を覗き込んだ。 「あの騒動のときの男か。ノトルニスを援助した以上、わしにも責任の一端はある。そうだな、奴ならあるいは……待っておれ」  何を取りに行くつもりだったか、老人は部屋から出ようとした。  そのとき黒い影が廊下から現れて、  どさり。  老人は部屋と廊下の境に倒れた。体の下に、赤い溜りが出来ていく。 「おじいさま? おじいさま!」  紅の痛ましい叫びが響き渡った。  レイヴンが駆け寄ると、蒼白になった老魔術師が、苦痛で呻きながら血で何かを書き残そうとしていた。  そこに金属の刃が旋回する。レイヴンはすんでのところでかわしたが、白い髪の毛が数本切れて宙に舞った。顔を上げ、腰に吊った刃の柄にさっと手を回す。 「……口封じか?」  怒りを抑えてレイヴンは問うたが、返事はない。自分の数歩前で、相手は何食わぬ顔をして、血を滴らせる短剣を手にして立っていた。短い黒髪に黒い瞳で、年齢は自分と大差ないように見える。返り血で汚れた衣服は庶民男性のものだが、胸部を押し上げる膨らみと、曲線的な脚が襲撃者の性別を伝えていた。  ……女だ。女の、襲撃者。  女は俊敏だった。魔術師たちが後ろから魔術を放とうとしたときには、既に廊下の奥に向かっている。レイヴンは魔術師たちにアウルの手当てを任せて、慌てて女を追った。女は絨毯の敷かれた廊下を走り、階段を駆け上がって、奥へ奥へと進む。騒動に気づいて廊下に出てきた使用人が、女とレイヴンの剣幕に驚いて、その場で腰を抜かしていた。  二階廊下の突き当たりまで来て、女はようやく足を止めて振り返った。刃を手にしたまま、レイヴンを見据える。標的のどこを狙うか、抜かりなく思案している様子で。 「……目障りな魔術師は追って来ないわね」 「逃がすかよ。お前、宿の部屋を覗いてた女か?」 「そうだよ」  すっと女の持つ刃が動く。眼前に来た刃を、レイヴンは自分の左刃で止めた。 「あのときとは服が違うな。まあいい。誰に頼まれて爺さんを襲った?」 「ノトルニス……とでも言えば納得する?」  刃の向こうで、女の赤い唇が、三日月形を描いた。 (4)  女の持つ短剣は、レイヴンのナイフより一回り大きい。長さも、刃の幅もだ。相手の腕が華奢な割に斬撃に重みがある。ちょっと気を抜いたら押し切られそうだ。  しかし相手の得物よりも技量よりも、レイヴンは自分が不安だった。  ……女を斬るのか? 俺が? 俺は目の前で女に死なれるのが嫌なのに。  廊下に数回刃鳴りを響かせた後、上手い具合に相手の懐に滑りこむことが出来た。今腕を動かせば、刃が相手に届く――しかしその一瞬の好機を、レイヴンはためらってしまった。代わりに、女が短剣の柄頭でこちらの頭部に打撃を食らわせてくる。体質上痛くはないが、頭がぐらついて、レイヴンは数歩後ずさった。 「男は殺れるのに女は刺さないの? もしかしてまだ坊やなわけ?」 「坊やかどうか知りたいなら、殺し合いより服脱いでもらうほうがいいな」  女の口元は嘲笑で歪んでいた。挑発は適当に流すだけだが……しかし引っかかる物言いだった。 「“男は殺せるのに”……か。俺のことを知ってるのか」 「ええ。あんたは仲間の仇」  女は間合いを詰めて豪快に腕を振り下ろす。避けるのも防ぐのも間に合わず、レイヴンの左腕は刃をまともに受けた。  痛みはない。痛みはないが、動かない。かなり深く斬られたらしい。左腕がぶらりと垂れ、握っていた獲物は床に落ちる。ひどい耳鳴りがしてきて、女の声が余計に苛立つものに感じられた。 「だからあんたにやる気がなくても、あたしにはあるのよね」  女が一歩踏み込んで、レイヴンの胴を突こうとしたとき。後方から、女の高い声で魔術言語が聞こえた。 『捕捉。玩弄。黒、傀儡』  右腕が動いた。いや、動かされた。自分の意思と関係なく、右の腰から刃が抜かれた。  だからレイヴンは、自分の右手の刃が女の喉を裂いたと把握するのに時間がかかった。把握してから、体中の力が抜けたようにその場に両膝をつく。自分の影に魔術の黒い糸が刺さっていることに、そのとき気がついた。これはクロウの魔術だ。姉は、レイヴンの頭がぼんやりしているうちに、近くまで駆け寄ってきていた。  自分を狙っていたはずの短剣は床に落ちている。主の手は、もう柄を握る力がない。その場にくずおれて喉から血を溢れさせていた女を、後方から紅が見ていた。祖父を傷つけた相手を、じっと、動かなくなるまで。   「レイヴン、私が分かる? 意識はある?」 「……ある。今のところは。クロウが手を動かしてくれたからな。そうじゃなきゃ、多分死んでた」  廊下にレイヴンが横たわったときに見た姉の顔は、陰鬱なものだった。レイヴンが負った怪我のためにぼろぼろと涙をこぼし、せっかくの綺麗な顔は台無しだ。けれど彼女は顔など気にせずに、手を真っ赤にしてレイヴンの腕を押さえていた。 「出血がひどいな。ああ大丈夫、繋げるよ。任しといて」  耳鳴りがする中、ジェイの声が混じる。 「処置の道具を取って来るわ。そこのあなた。お湯と綺麗な布を」  紅が、おろおろする使用人に指示を出す声が聞こえる。  魔術師は治療行為をするとき、かなり合理的に動く。三人の魔術師たちは、アウルから完全に離れてレイヴンの治療に当たっていた。だから、あの老人がどうなったか、レイヴンは彼らに尋ねずとも十分に判断がついた。  姉は自分の体を勝手に動かして、勝手に女を殺した。  そのことが少し、レイヴンの心の奥底でもやもやとしたが――黙っていることにした。姉を詰る気にはなれなかった。  □ 「ノトルニスとアウルの爺さんの繋がりを、他の長老会の連中がまったく知らなかったとは思えんな。関わっていた奴もいるはずだ。まあ……死んだアウルの爺さんに責任全部おっ被せて、他の奴らは知らぬ存ぜぬで押し通すだろうけどな。トカゲの尻尾切りだ」  クロウのかつての勤め先。その休憩室で、中年の魔術師が無精髭を抜きながら言う。 「それでも長老会の一人が死んだとなれば、重い腰も上げるさ。アルアトも黙っていられん」  彼は座っている椅子の背もたれに体重をかけて、両腕を頭の後ろにやった。  レイヴンとクロウは、一昨日紅の家で起きた事件の説明に来ていた。  休憩室の机の上には図の描かれた紙きれがある。アウルは血で地図を描いていた。それを描き写したものだ。示す場所はアルアトの近郊。周辺地理も合わせて考えれば、潜伏場所はかなり絞り込める。  レイヴンは布で腕をぐるぐる巻きにしている。魔術治療のお陰で回復は早いが……最近、前にも増して怪我ばかりだ。もっともこれは、相手と冷徹に向き合えたなら、しなくてもよかった怪我かもしれない。 「こっちが居場所を突き止めたことを、ノトルニス側に知られてないか」 「知られてるだろうな」  中年の魔術師はあっさりと答えた。 「アルアトの警吏が行く前に、ノトルニスが逃げ出さないか」 「逃げるだろうな」  中年の魔術師は再びあっさりと答えた。 「打つ手なしかよ」  レイヴンが渋面を作る。怪我がなかったら、机を叩いているところだ。 「どうしても先を取りたいなら、警吏が行く前にお前が行けばいい。大人数が動けばすぐ勘付かれることも、少人数ならあるいは、だ。俺は病人怪我人が無理をするのは好かんが、お前たちはそんなこと言ってられん雰囲気だしな」  喋り終えると、中年の魔術師は手のひらくらいの鏡を使って顔を見始めた。見ながら尋ねてくる。 「紅の魔女と、ノトルニスの弟はどうなった」 「……紅はしばらく謹慎するって言ってた。そっとしておいて欲しいって」  クロウが答えた。身内の死と醜聞が一度に来たのだ。自分を処置した時の紅は冷静だったが、心中は決して穏やかではないだろう。紅の家は名家だから、その分、何かあれば世間の目は厳しい。 「ジェイはノトルニスと直接会いたいみたいだけど……一方で紅を放っておけない。板挟み」 「そうか」  中年の魔術師は顔と鏡を離し、目を伏せた。額に軽く指を当てる。  ノトルニスの潜伏場所に行くのなら、彼らの協力があれば心強かったが……そうもいかないようだ。  ジグラスの標本はここで預かってもらうことにした。話は済んだし紙切れは懐に入れたし、これでもう用はない。いや……一つ残っていたか。 「おっさん。クロウだけど」  レイヴンは急にクロウの手を引いて、中年の魔術師に告げた。  「クロウはアルアトには残らない。錆の谷に俺と一緒に帰るんだ」 「そりゃ残念だ。うちの仕事が増える」  彼は自分たち二人を見て、声を上げて笑った。長い黒髪から覗く姉の耳は、赤くなっていた。  レイヴンは姉を連れて建物から外に出た。晴れた空が頭上にある。まだ初夏なのに、日照りでじりじり暑い。今からこれでは、夏のアルアトはさぞ堪える猛暑だろう。 「さっきはありがとう。私が帰りたいのを知ってて、言ってくれた」  クロウがレイヴンの服を引っ張った。門を出ても、姉はまだ頬を染めている。 「アルアトには温泉がないからな。錆の谷には温泉が待ってる。また二人で入ろう」 「……レイヴン、体目当て?」  照れ隠しで軽口を叩いた途端、姉は半眼でこちらを見てきた。  レイヴンは紙切れを引っ張り出して、もう一度確認した。何が待つか分からない場所だ。それでも。 「行くか」  進むしかない。歪んだ体が治る可能性を追って。  (ノトルニスの影、アルアトの罪・了) ■[chapter:9 探究者] (1)  魔術都市アルアト周辺の探索を始めて二日経つ。  成人男性の背よりやや高い木々が並び立つ林の中の、川にかかった橋の前で、クロウが昼食のパンをかじっていた。レイヴンはいつも通り食欲がないので、足休めで橋の縁に座っている。  ……ここ数年で体力がかなり落ちた。眠れない、食事が出来ない体なんて弱って当然だ。魔術の素質はなく、散々殺生し、傷痕をこさえてきた体でもやはり死ぬのは惜しい。自分の身は一体いつまで持つのだろうと、ここ数か月、ふと物思いにふけっては不安の霧に包まれる。  だからノトルニスの話には乗る以外の選択はなかった。各人が語る奴の人物像は偶像めいている気がしたから、会ったところで本当に自分の体が治るのか疑問はあったが。 「ノトルニスってどんな奴だ?」  レイヴンは姉に声をかける。突然話を振られたせいか、クロウはすぐには答えなかった。口をもぐもぐさせてパンを飲み込んでから、複雑な顔になる。 「……蜂蜜男」 「は? ハチミツ?」  レイヴンの口から頓狂な声が出た。けれどもクロウは冗談を言った風でない。真面目な顔で首を縦に振った。 「甘いものが大好きみたいだった。高価な蜂蜜の瓶を、私にくれた。何回も」  追放前は名を馳せていたそうだから、値の張るものでも楽に手に入ったのかもしれない。しかし、好物の高級品を他人のクロウにほいほい与えるのは、どことなく奇妙に感じた。 「知り合ったのは学生の頃。向こうはとうに卒業してて、忙しそうだった。休憩で外に出たときに、偶然、話す機会があった。ノトルニスにも、ジェイが……弟がいる。私にもいる。それで話が続いて、知り合いになった……だから事件のことはびっくりした」 「憧れの魔術師ってことか」  レイヴンが結論付けるように言う。しかし憧れという表現がまずかったのか、クロウは少し怒ったように、語気を強めて返してきた。 「昔は。今は、違う」  クロウが食べ終えると、二人は探索を再開した。橋を越えて木の間の細い道を進むと、正面の石に、誰かが腰かけているのが見えた。警戒しながらも道なりに歩いて行くと、向こうもこちらに気がついたようだが、座ったままでいる。  石に座っていたのは、筋肉質な男と丸っこい男。二人とも年は二十から三十程度だ。筋肉質な男は右目に眼帯をしていた。近づくと、あの時の俺だよと言わんばかりに眼帯をめくって、下の義眼を見せてくる。義眼は淡い緑の光を放っていた。  この男は錆の谷に来た襲撃者だ。レイヴンが得物に手をかけたとき、相手はおどけた声で話しかけてきた。 「三つ編みの白髪ちゃん。アルアトは俺らを切ってきたか?」  レイヴンとクロウがまごついて互いの顔を見合わせると、眼帯の男はつまらなさそうに笑った。 「そんなこと知らねえって顔だな。てめえらは独断で動いてるのか。おっと、刃は抜くな。今のところはてめえら二人を妨害する気はない」  眼帯の男が、隣の丸っこい男の背を叩いた。丸っこい男が、あうあうと呻くような声を出す。刃の柄から一旦手を放し、彼ら二人を見てレイヴンは尋ねた。  「お前たちは、生まれつきの魔術師か?」 「……もう隠す意味がなさそうだな。違うぜ。俺らは元々ただの人間だ。ノトルニスにいじってもらった。その結果、俺は片目を失くし、ジグラスは腕を失くし、こいつは声を失くした……魔術言語以外は喋れねえ。無理やり体を変化させた影響だとさ」 「そうまでして……」  声を出したクロウを、 「なりたいもんだ。錆の谷の魔術師さんには分からないだろうがな」  眼帯の男が皮肉げに遮った。言い返す言葉が出てこないのか、姉は黙ってしまう。代わりに、レイヴンが一歩前に進み出た。 「割に合わないな。失った目や腕の代わりに魔術の義眼や義手じゃ、何も得をしてないだろ」 「"ない"ものを"ある"状態にするのは骨が折れるが、一つあるものを二つや三つにするのはそう難しいことじゃないらしいぜ。今、俺は"ある"状態に到達してる。あとは二つに三つに増やすのさ。もっと高度な魔術が使えるようにな。だが……」  眼帯の男はすっと、目元を鋭くする。 「資金や支援が止まれば、その"増やす"ことさえ出来なくなる。なんせまだ実験段階だ。アルアトのくそじじいどもが、二度も発覚した不祥事にさらに首を突っ込むかどうか……俺は、ないと考えた」  眼帯の男は道の先を指差す。お前たちの目的地は向こうだと。それから諦念の混じった醒めた声を出した。 「行きたきゃ行け」    この男は、ノトルニスの一団から抜けることを選んだのだろう。レイヴンとしては、邪魔して来ないならそれでいい。言葉通りにレイヴンとクロウが男二人の横を通り過ぎようとして、男たちの横に立ったとき、 「待て。もう一つ。イリアがアルアトから帰って来ない。殺ったのはてめえか?」  敵意のこもる視線と声で呼び止められた。レイヴンは聞き返す。 「イリア?」 「短い黒髪の女だ。短剣を使う」 「……そうだ」  レイヴンは肯定し、相手の出方を窺った。眼帯の男は石に座ったまま動かない。腰に剣をぶら下げているのに、抜く様子がない。しかし表情には今にも掴みかかってきそうなほど憎しみが滲んでいて、友好的とも思えない。 「抜かないのか」 「ジグラスとイリアの仇は討ちたいが、犬死にもお断りでな。てめえの隣で、錆の谷の魔術師が怖え顔で睨んでる」  相手は顎をしゃくって、レイヴンの隣にいたクロウを示す。 「だから俺は止めねえ。行きたきゃ行け」  同じく石に座る丸っこい男が、何かを呻いた。呻くだけで言葉にはなっていなかったが、もう顔も見たくないからあっち行け、という強い嫌悪は読み取れた。  初夏の陽は眩しい。しかし林に生える木々が遮ってくれるおかげで、道を歩くのはあまり苦ではなかった。  レイヴンがシャツの袖を肘まで捲し上げると、左腕には先日の怪我の痕がある。魔術で診てくれるクロウが言うには、完治はしていないから無理するなということだった。けれど体質のせいで痛くないから、どこまで行けば無理に当たるのか実感が湧かない。血が止まっていて腕が動けばいいとさえ思っていた。  二人の男と会った場所から、さらに道なりに北東に進んで、姉弟は紙きれを見た。アウルの遺言とも言えるこの紙切れが正しいなら、示す場所はこの周辺になる。  太陽が傾くまで、レイヴンとクロウは周辺の草木や石を見て回った。もしや見当違いの方向に来たのではないか、ひょっとして最初から地図が間違っているのではないか――そんな考えがちらと頭を掠めたとき、レイヴンは少し先にある岩が気になった。近づいてみると、岩の影は抉れた窪地になっていて、下りの石の階段が備わっていた。砂を被ったそれを下りると、岩壁に戸がある。戸に錠はなかった。しかも、最近誰かが出入りしている形跡がある。  レイヴンは逸る気持ちを抑えた。中に人間がいるとしても、探している相手とは限らない。単なる野盗のねぐらかもしれない。厭世する隠者の庵かもしれない。  ごくりと唾を飲み込んで、そばの姉に視線を送る。彼女は顔を引き締めて頷いた。  息を殺して戸に手をかけると、戸はあっけなく、きい、と音を立てて開いた。  中は涼しく、ひんやりしていた。足下も壁も茶色い岩肌がむき出しで、天井はレイヴンよりも頭三つ分は高い。通路のような細い道が奥に続いている。途中に小部屋もあるようだ。 「ここは何だろうな」 「……多分、遺跡。元々は大昔の人間が生活していた洞窟だと思う。でも、この明かり。奥に誰かいる」  クロウは天井を見上げた。つられてレイヴンも上を向く。魔光灯の小さな明かりが、緑色に光っていた。魔光灯が設置してあるのは、魔術師が生活している証のようなものだ。 「お久しぶりです」  そのとき突然に、通路奥から声がかかった。  魔光灯の明かりが声の主を照らす。レイヴンとクロウの数歩前に現れたのは、眼鏡をかけた禿げ頭の小男だ。左手の甲の入れ墨、それに何より、この顔には見覚えがある。こいつは、こいつは三年前の―― 「コウモリ!」 「レイヴンさん、御機嫌よう」  コウモリは笑って一礼した。こちらが怒りに震えて声を荒立てたにもかかわらず、怖気づく様子も動揺する様子もない。不謹慎なほどに平静で、そして不気味だった。 「お二人ともよくいらっしゃいました。奥までご案内しますよ」 「ふざけるな! お前のせいで、俺がどれだけ苦しんだか!」  忘れもしない。コウモリは三年前、アルアトで自分の体をぼろぼろにした張本人だ。レイヴンは感情に駆られるまま両の刃を抜いて、相手に向かって足を踏み出し―― 「困りましたねえ」  けれども相対するコウモリは平然としたもので、指先でちょいと眼鏡をいじる。その後何事かを呟いて右手を振ると、矢が宙を飛ぶような勢いで、一本の黒い指先がこちらに伸びる。  指先は何本も髪を切り、首の横で止まった。レイヴンではなく、魔術言語を発しかけた姉の首に。彼女がひゅっと息を飲む音が聞こえた。 「クロウ!」 「私が指を動かせば、クロウさんの喉がちょんと切れます。彼女が魔術言語を唱えるよりも先にね」  動きを止めるしかなくなったレイヴンの前で、小男は眼鏡の下で目を細める。 「ついて来てください。道中、興味がおありのものは解説しましょう。廊下は走らないでくださいね」 (2) 「……この奥に何があるの?」 「ノトルニスがいます。お二人は遠路はるばるノトルニスに会いに来たのでしょう?」  小男は伸びた指を元に戻して、悪びれることもなくクロウに言う。  レイヴンは姉のクロウに視線を遣った。彼女は顔に汗を浮かべて、コウモリを睨んでいた。長い黒髪が顔に何本も張り付いている。  コウモリは奥に来いと言う。罠だろうか? けれども罠であっても、今さら引き返すことは出来なかった。  ノトルニスを追って、コウモリに会った。   ノトルニスとコウモリには関連がある――今まで推測でしかなかったことが、符合した。  魔光灯が照らす細い通路を、三人で奥へ向かった。レイヴンは無言でいた。目の前を歩くこの小男の首を、どれほど掻き切ってやりたいことか。  けれども先ほどの攻防が、実際に行動に出るのを止めさせていた。コウモリはレイヴンではなくクロウに攻撃を向けた。自分の行動のつけは姉に来る……そう思うと、実行に移すのは躊躇われた。  クロウも迷いの中にいるらしい。レイヴンがたまに後ろを見ると、険しい姉の顔がある。魔術を編もうとしては、直前で留まっているような様子が見て取れた。  ふと、通り過ぎようとした通路脇の戸の奥から、何かが聞こえた気がした。人間の声のようだ。呻くような、苦しむような、とにかくあまり心地のよくない声だ。 「気になりますか?」  コウモリが立ち止まって、問う。奴はレイヴンが返事をするより先に、通路脇の戸を開けた。  内部からはすえた臭いがする。"いい眺め"では決してないだろうことを覚悟して、レイヴンとクロウは中を覗き――それでも目を見開いた。  そこは床に石の敷かれた、汚れて不衛生な部屋だった。人間が倒れている。数は二十人を超えているだろうか。男も女も混ざっていて、彼らは裸と言っていいくらい、ほとんど着る物を身に着けていない。生気はなく、皆ぐったりしている。中には脚や腕に不具のある者もいた。 「ノトルニスの希望で、各所から貧民をかき集めていました。初期は実験に耐えきれなくて死ぬ者が多かったのですが、繰り返すうちに段々と、上手くいくようになりました。まあここは、失敗組です。自分の名前さえ忘れてしまったようです。死ぬまでの間、芋虫のように這って動くのがせいぜいでしょう」  コウモリの説明が耳に入ってくる。彼は淡々と述べていた。聞く立場のレイヴンは、言葉を発することを忘れていた。 「アルアトでノトルニスが問題視されたきっかけは、名前のある家の人間に手を出したことでしてね。それならばと、下層の人間を使うようにしたのです」 「……薬を配るのもその一環?」 「その通りです。試さないことには次に進めません」  クロウの震える声に応じて、コウモリは演劇の役者のように大げさに、諸手を広げた。  痩せた体躯にぼろぼろの布をまとっただけの女が、床を這ってこちらに近づいてきた。苦しげに呻き、不規則な呼吸音を立てる。髪は抜け落ち、皮膚は剥がれ、若いのか年を取っているのかさえ分からない。  コウモリは彼女を見下ろして頭を蹴ると、そっけなく戸を閉めた。 「お前……!」  ようやく我に返ったレイヴンがコウモリを罵ろうとしたが、 「行きましょう」  こちらの言葉と手が出るより先に、小男はくるりと背を向けて奥へ行ってしまった。  やるせない気持ちで戸に触れたレイヴンの腕を、クロウが掴んだ。顔を曇らせて、首を横に振る。ここの人間はもう助からないと、彼女の黒い瞳は告げていた。  先に行ってしまったコウモリを追って、姉弟も奥へ進んだ。小男はレイヴンとクロウの前方を、軽い足取りで歩いている。  突然、コウモリがこちらを振り返った。何かあるのかと疑問に感じた刹那、奴の姿は闇に消えてしまった。 「な!?」  ぎょっとしたレイヴンが、コウモリの消えた場所まで慌てて駆け寄ったとき。  ばたん。 「しまっ……」  レイヴンの背後で、音を立てて戸が閉まった。戸は金属で出来ていて、途中にあった小部屋のよりもずっと頑丈だ。拳を作ってごんごんと戸を叩いたが、向こう側からの反応はない。起きた事態が何なのか頭に浸透するのと同時に、血の気が引いた。  分断された――?  「クロウ! 聞こえるか、クロウ!」  失態だ。ひどい失態だ。レイヴンは焦りで声を張り上げ、何度も何度も乱暴に戸を叩いた。けれどもやはり、向こう側からは何も返って来ない。握った手に冷や汗が滲んだ。 「クロウ――」 「やあ。お客さんだね。そんな大声出さないで」  叫ぶレイヴンの後ろから、男が呼びかけてきた。声音は軽快なわりに、病的にも感じられる。底なし沼の入り口に[[rb:誘 > いざな]]うような不健康さを帯びていた。 (3)  奥から一歩一歩、声の主は近づいてきた。段々と相手の容姿が分かる。ぼさぼさの金髪を伸ばした、背の高い細身の男。着ているものはくたびれた裾の長いローブ。服は違うが、これは数日前に会った顔のようだ。 「ジェイ?」  レイヴンの口からこぼれた名前に、相手は苦笑した。 「それは弟の名前だよ。私はノトルニス。そういえば、今頃ジェイは何してるんだろうなあ」  ノトルニス。相手が口にした名前が、レイヴンの頭にゆっくり染みわたっていった。 「ノトル……ニス? ノトルニスだって?」 「そうだよ」  天井から吊った魔光灯の明かりが、目の前にいる人間の笑い顔を照らした。  弟のジェイとあまり年齢は離れていないのだろう。確かによく似ていた。ただ、外で動き回っているジェイと比べて、ノトルニスは屋内にこもりきりなのか、さ白く不健康な風体ではあった。  ここは魔術師ノトルニスの作業場所のようだ。薬品臭のする部屋の中は、地中ゆえ光源を魔光灯に頼っている様子だ。通路よりも天井は高い。本棚に収まりきらずに床から塔のように高く積まれた本の山、机や床に散乱する走り書きの紙切れ、机上のごちゃごちゃした実験器材、棚に押し込められた動物の標本や乾燥した植物、薬品の瓶等々で溢れかえっていた。  クロウの部屋を髣髴とさせるものがある。魔術師という奴は似た空間を作るものらしい。 「コウモリから来訪者については聞いてる。君は……レイヴンだったかな。初めまして」  ノトルニスが握手のために差し出してきた手を、レイヴンは握る気にはなれなかった。不快を表に出したこちらの態度に、最初は微笑んでいたノトルニスが残念そうに手を引っ込めた。 「クロウをどうした」 「コウモリといるだろうね。彼は女嫌いだからちょっと心配だけど」 「すぐここから出せ!」 「まあまあ。コウモリには確保だけにするよう言ってあるよ。クロウに死なれたら私も嫌だ。ところで、君は私に用があったんじゃないのかな」  背後の金属の戸を、レイヴンは後ろ手で触れた。やはり開きそうにない。叫んだところでクロウに届くかどうかも分からない。少し思案した後、レイヴンは尋ねた。ここに来た目的だ。 「……俺の体は治るか? ジェイが、あんたなら治せるかもしれないって言ってたんだ」  コウモリが持っていた薬を浴びて以来、体質が変わった。そのことをノトルニスに話すと、 「弟が? それは持ち上げすぎだな。私でも難しいものはある。踏み入ったことは、時間をかけて調べさせてもらわないと何とも言えないけど――ちょっと見せて」  彼はレイヴンの白髪や目や手首を観察し、その後でレイヴンの腕をつねってきた。痛くないので特に反応も返さない。今度は小さな刃物でレイヴンの指先を切った。血が浮き出てくるが、もちろん痛くない。  ノトルニスは検査用らしい紙片を出して血をつけ、観察し、後方にあった器材の上に置いた。何か字が浮かび上がっているようだが、レイヴンの位置からは読めない。  しばらく黙考した後、彼はレイヴンの前に戻ってきて、言った。 「死を遠ざけるのが君の目的なら、処置の仕方はある。だけどね……症状にはおそらく生涯付き合うことになるんじゃないかな」 「一生、この体……?」  呆然とするレイヴンに、魔術師は頷いた。  痛みはなく、眠くもなく、腹も減らず、味も感じない、今のいかれた体のままだという意味だ。以前、紅の魔女も言っていたのと同じで。  しかし不安のせいか、レイヴンの体から急に力が抜けて、戸を背にしてずるずると床に座り込んでしまった。  ノトルニスがこちらの目の高さに合わせてしゃがむ。 「生きてる間薬に頼ることになるのは覚悟して。これクロウが診てたんだね。今まで生きていただけでも大したもんだ。環境がよかったのかな」 「他人事みたいに言うな。お前が作った薬のせいだぞ」 「使い方を誤ったのは君だ。まあ、そのおかげでクロウが無事だったね」 「コウモリは……!」 「私が逐一監視してるわけではないよ」  こちらが呪いのこもった眼差しを向けても、相手は意に介さないようで、けろりとしている。  レイヴンは歯噛みして下を向いた。白髪が垂れて視界に入る。  探し回った魔術師にも治らないと言われた疲労感が、どっと圧し掛かっていた。  自分よりもクロウが気の毒だった。治らない相手に、必死になっている姉が。 「君は長生きしたい?」  その言葉に釣られるように、レイヴンは魔術師を見上げた。 「君の体を私が診てもいい。ただし条件がある」  ノトルニスは微笑んでいた。しかし……姉の笑顔とは違って、レイヴンは不安を覚えた。この顔の裏側でこいつは何を考えているのだろうかと、勘ぐりたくなる。 「順を追って話すね。まず、私のことは知ってるかい?」 「興味本位で残酷な実験をし続けてる、とち狂った天才だ」  レイヴンは顔を引きつらせて率直な返答をした。いい印象は持たれてないようだねと、ノトルニスは苦笑いする。 「ただの人間を魔術師にするのを、この期に及んでまだ続ける気なのか? もうアルアトの援助は期待できないぞ」 「心配いらない。アルアトが駄目でも、魔術師になる方法を探す人間は他にもいるからね。それに技術はある程度出来てる。まだ安定しないから、もっと確実にしたいけどね」  しゃがんだまま喋るノトルニスは楽しげで、能天気にも思える様子だった。 「でも残念なことに、私も人間でね。私の残り人生全て費やしても、多分終わらない。それで、出した結論は……自分の延長がいる」 「延長?」  金髪の魔術師は首を縦に振った。 「そう。父親になりたいとでも言えば、君にも理解しやすくなるのかな」  自分の子に跡を継がせるという発想はありふれたものだ。けれどもこの魔術師の言葉を聞いていると、こちらの心はざわついて、まったく落ち着かない。凶悪行為の後継というだけではない何かが、頭の中で警鐘を鳴らしている。 「自分の子供だからって、思い通りに産まれてくるとも育つとも限らないだろ」  レイヴンは、ノトルニスを真正面から睨み据えた。 「そうだね。でも赤の他人に賭けるよりはいいんじゃないかな。以前、素質のいい小さな子を拾って魔術を教えたんだけど、上手くいかなかった。知り合いがその子に人形も家もあげたのに、いつの間にかアルアトに保護されてね」  ……人形遣いシュライクのことだろうか。子供が一人で住んでいるにしては不自然なほど大きな屋敷と、一つだけ出来のいい人形を持っていたことを、レイヴンは思い出した。 「自分の血を引いた子が複数いれば、そのうち一人くらいは希望に適うんじゃないかなと思ってるんだ」  おもちゃを目の前にした幼子のような口ぶりで、ノトルニスは続ける。 「今、女が来た。それも優秀な魔術師が。あれが欲しい」  魔術師の子供は魔術師である場合が多い。それに両親が優秀なら、子供も優秀になりやすいらしい。  奴は言った。“優秀な女魔術師が来た”と。  それが誰のことなのか思い至って――寒気がした。 「クロウの……ことか?」  レイヴンの喉から出る声は、怒りで震えていた。 「条件ってのは、俺を診る代わりにクロウを寄越せってことか?」  ノトルニスが平然と頷いたそのとき、レイヴンの右手が拳を作って相手の頬を殴っていた。 「痛いよ。殴られたのは久しぶりだ……昔ジェイと喧嘩したとき以来か? 弟ってのは気性が荒くなるものなのかな」  よろけた上体を起こし、ノトルニスは左頬に手を遣った。しかし考えを変える様子ではないので、レイヴンは一層腹が立つ。 「クロウに跡継ぎを産ませて、子供にお前と同じことをさせる気なのか?」 「そうだよ」  ノトルニスの声が耳に入るのと同時に、またレイヴンの右拳が動いたが――  かすかに聞こえた、ノトルニスの魔術言語。発動までの時間はごくわずか。魔術師の影から瞬時に伸びた大量の黒い糸が、目にも留まらぬ速さでレイヴンの右腕に絡まった。  右腕が動かなくなっただけではない。多数の黒い糸が、レイヴンの首に、胴に、脚に絡まって束縛する。  見覚えのある魔術だった。これは以前クロウが使っていたのと同じだ。膨大な量の黒糸は容易くレイヴンの体を宙に持ち上げ、頭が天井につきそうになる。黒糸に巻きつかれたところで痛くはないが、身動きが取れないので苛々した。糸をちぎってしまいたくても、動くと余計に絡まってしまう。 「離せ!」 「殴られるのは嫌なんだよね。痛いし」  レイヴンの喚く声などお構いなしに、ノトルニスは頬をさすっている。  自分の目の前にあったはずの魔術師の顔は、いつの間にか下方からこちらを見上げていた。 「何を怒ることがある? 魔術師の頭数を増やすのは、アルアトの宿願みたいなものだ。それに魔術師が増えれば、新しい技術も出やすくなる。世の中はもっと発展する」  下からノトルニスが何か喋り始めた。しかし彼の話を、レイヴンは聞く気がなかった。もっともらしい理由を並べられたところで、感情が納得しない。レイヴンは吐き捨てるように言った。 「俺はアルアトなんてどうでもいい」 「そうだな。君は魔術師じゃない。でも魔術師でない者を魔術師にする技が世に広まれば、君のように素質を持たない者が悩むこともなくなるんだよ?」 「ノトルニスが一生かかっても完成しないんだろ。もし完成するとしても、その頃には俺も死んでるわけだ。自分が死んだ後のことなんて知るか」 「君は後の時代の利益はどうでもいいのか」 「お前自身、後の時代の利益なんてどうでもいいと思ってるだろ。今の自分がやりたいことをしてるだけで」  この男は好奇心のために大量の人間を犠牲に出来る魔術師だ。大衆の利益を真剣に考えるとは思えない。辛辣な指摘を口にしたレイヴンに、ノトルニスは下から笑いかける。 「うん、その通りだ。完成にはこぎつけて欲しいと思ってるけどね」 「ノトルニス」  金属の戸の向こうから、男の声がした。ノトルニスが魔術の黒糸で吊られたままのレイヴンを動かすと、 「私に女の守りをさせないでください……ああ、この様子だと話が割れていますね」  あっけなく開いた戸の向こうから、禿げ頭の小男と長い黒髪の女が入ってきた。コウモリとクロウだ。クロウは外傷はなさそうだが、面持ちは重苦しい。クロウに向けられたコウモリの袖口からは、仕込みの刃が金属の光沢を放っていた。  クロウは魔術で吊られたレイヴンの体に気づいて、暗鬱な表情を一層曇らせる。 「やあクロウ、久しぶり。そんなに怖がらないで。説明は、コウモリから聞いてるよね?」 「……レイヴンの治療の話、嘘じゃない?」  ノトルニスがかけた声に対して、彼女が真っ先に返したのは弟の治療のことだった。眼差しからノトルニスに対する敵意を読み取ることは出来ても、愛情は読み取れない。男魔術師は傷ついた様子で口を曲げた。 「嘘じゃないよ。だけどそんな顔をするのか。産んでくれるだけでいいのに」 「クロウ、俺なんかのためにその外道魔術師に関わるな」 「でもレイヴンが」 「気にしなくていい。俺はクロウに何かあるほうが嫌だ」  わさわさと黒糸が絡まった中でも、レイヴンは首を横に振った。確かに体を治したいと願った。長く生きたいと願った。けれども、姉を犠牲にするのはお断りだ。  横で聞いていた禿げ頭の小男が、レイヴンを見上げ、困惑した様子で問いかけてきた。 「レイヴンさん、私はあなたが分かりません。あなたの人生は、この女のせいで狂ったと言っても過言ではないはず。この女の魔術に嫉妬して魔術師になりたがったのでしょう? しかし薬から庇って体が狂った。今は、彼女があなたが生き続けることを望むせいで、あなたは死んで辛苦から解放されることさえ選べない」 「……」 「あなたにとって、この女魔術師はどれほどの価値があるというのですか」 「一緒に生きたいって思ったんだ。十分すぎる価値だ」  懐疑的なコウモリを見下ろしながら、レイヴンは偽りなく話す。 「お前はくだらないと思うかもしれないが、クロウと一緒に錆の谷で過ごしてきた三年以上の月日は、俺にとって苦しくても幸せな時間だったよ」  クロウは子供の頃に別れて以来空白だった、肉親の無償の愛情を与えてくれた。体が苦しいときも、心が苦しいときも、見捨てることなく相手をしてくれた。 「だから二人で錆の谷に帰るんだ。クロウはノトルニスのものにはならない」  ノトルニスはつまらなさそうにため息をついて、ぼさぼさの長い金髪を掻いた。後ろの机に戻って、何かの瓶を持ってくると、中身を匙ですくって口に入れる。琥珀色のあれは蜂蜜だろうか。 「甘いものは気分が落ち着くね。さっきからレイヴンが怒ってるから、どうしてだろうなと疑問だったけど、そうか……それでクロウも怒るのか。クロウは私を待っててくれると思ってたんだけどな」  彼は匙を口から出して不満をこぼす。ノトルニスがクロウをどう思っていたか、レイヴンは知らない。しかし、少なくとも顔や声は本当に残念そうだった。 「人員のほとんどは他の場所に既に移動させてるし、今までの記録は全部私の頭の中に入ってるけど……」  喋りながら、匙の先をレイヴンに向ける。 「君たちにも来て欲しいんだよ。本当だよ」   (4)  ノトルニスとコウモリの二人は、アルアトに観念して大人しく捕まるという風体ではない。むしろ余裕さえ感じられる。自分たちの力のほうが上回るから、調査隊や警吏程度を相手に、慌てて逃げ出す必要はないと思っているのだろうか――  この状況下で、そんなことを考えている自分が、レイヴンは嫌になった。  体を拘束する黒糸が恨めしい。手足が動くのなら、何も考えずにすぐにクロウを連れて外に出るのに。 「ノトルニス、どうしてクロウにこだわる?」  黒糸で持ち上げられ縛られた体のまま、レイヴンは眼下の魔術師に尋ねる。 「魔術師として優秀で、若い女って意外と探すのが手間でね。それにほら、彼女は綺麗だろう? 昔、アルアトで会ったときも可愛かったよ」  クロウを一瞥してからこちらを見上げて答えるノトルニスに、悪意はなさそうだった。  姉が魔術師として優秀なのも、見目がいいのも同意する。だが彼女の顔は、今は嫌悪と反感でこわばっていた。こんな風に彼女を困らせるのは、レイヴンは好まない。 「子供を産ませるだけでいいなら、手足を切り落とせば楽になりますよ」  クロウに仕込みの刃を突きつけたまま、禿げ頭の小男はさらりと言う。 「コウモリのやり方は穏やかじゃないね。相手が女だと特に」  ノトルニスは蜂蜜を匙ですくって、また口に入れた。 「私としては、君たちを帰す気はないけど、必要以上に傷つける気もない。クロウもレイヴンも、言うことを聞いてくれないかな。コウモリの脅しはひどいけど、私はそんなことしたくないよ。食べるものも住居も衣服も提供する。レイヴンには、症状を和らげるように手を尽くす。代わりに、クロウには私の家族を作って欲しい。レイヴンは、私の作業を邪魔する人たちが来たら追い払ってくれると助かる」 「断る」  魔術師の再度の提案を、レイヴンは拒んだ。再考は必要ない。 「クロウも?」  ノトルニスの腕前を知っているからか、話を振られたクロウは答を迷っている。弟の治療に手を貸してくれる、ただそれだけのことで心を揺さぶられているようだった。 「クロウ、断れ」  レイヴンは再度、姉に呼びかけた。こんな取引に乗らなくていい。この体はそもそも、自分の僻みが招いた惨状だ。クロウが苦しむくらいなら今のままで結構だ。 「ああ、じれったい。面倒ですねえ」  唐突に、コウモリが間延びした声を上げる。わずかに手を動かし――クロウの首筋に何かしたようだった。間髪入れず、レイヴンにも細い何かが投擲された。  魔術の黒糸をくぐってレイヴンの脚に刺さったのは、数本の針だった。薬か何かが塗ってある。刺さった箇所から血が垂れるものの、レイヴンは痛くも何ともない。けれど下にいたクロウはその場に倒れ、ぐったりとして動かない。 「クロウ!?」 「いつものことだけど、コウモリはせっかちだね」 「男女の三文芝居には興味がないんです。おや、あなたには効きませんか。針に眠り薬が塗ってあったのですが」  小男は指先でちょいちょいと眼鏡を動かし、何事もない様子のレイヴンに興味深そうに顔を向ける。レイヴンは歯噛みした。 「お前のせいで、俺は眠れないんだよ」 「……そうか、君は眠れない体質だと言っていたね。これが効かないのなら、ずいぶんきつい薬でないと眠れないんだな。覚えておくよ」  焦ることのない、呑気なノトルニスの声。声の主は、匙を入れたままの蜂蜜の瓶を床に置いてクロウに近づき、横から抱え上げた。ノトルニスの細身で青白い体にしては、軽々と。 「ノトルニス! クロウをどうする気だ!」 「君がいるとまともに話を聞いてもらえないみたいだから、場所を変えてゆっくり話す。暴行する気はないよ。安心して」 「信じられるかよ。待て! クロウ、起きろ!」  暴れて喚くレイヴンの声も、虚しく部屋に響くだけ。レイヴンが何度声を荒らげても、クロウは意識が戻らない。ノトルニスは彼女を抱えたまま、黒糸に巻かれたレイヴンに堂々と背を向けた。女の長い黒髪がだらりと垂れて床に擦っているのも構わず、金髪の魔術師は部屋の奥へ歩いていく。途中で振り返ると、小男に一言、声をかけた。 「……コウモリ、彼を説得して」 「いいでしょう」  コウモリは承諾し、眼鏡の奥の瞳に剣呑な光を宿した。  髪の長い魔術師二人が奥に消えた後、 「改めて、お久しぶりです。錆の谷では身内が失礼しました」  黒糸に巻かれ宙に持ち上げられたレイヴンの下で、小男が慇懃に詫びた。 「錆の谷の魔術師がノトルニスの古い知り合いだとは思わなかったのです。薬の使用者も失敗例のほうが多いですから、魔術師のなり損ねと聞いてもあなたと直結しませんでした」 「そんな話、今さらどうでもいい。下ろせ! クロウを返せ!」  レイヴンの怒声に、コウモリはくつくつと笑った。諸手を広げて、頭を横に振る。 「初め、私はあなたと分かり合えると思っていましたが、完全に見当違いだったのですね」  相手が言い終えるころに黒糸は消え、レイヴンの体はどさりと床に落ちた。  黒糸が消えたのは術者が遠ざかったためだろう。ともかく、やっと解放された。  落下した体勢から起き上がり、床を蹴って姉を追おうとしたレイヴンを、 『穿通。直。黒、一線』  コウモリの魔術が止めた。  指先から伸びる硬い黒糸が、矢が宙を飛ぶような速さでレイヴンの右腿を貫いていた。  黒く長い魔術の糸。その鋭利さは糸というより、むしろ柔軟な針と表現したほうが的確かもしれない。 「昔、私はただの人間でした。それゆえに魔術師に憧れました」  憎悪で顔を歪ませるレイヴンに向けて、訥々とコウモリは語り出す。続けて放たれた魔術言語で、別の指先から伸びた硬い黒糸がこちらの左脇腹を貫通してなお伸び、先端が床に刺さった。直立した体勢で、黒糸で床に繋ぎとめられた形だ。 「ノトルニスと知り合って、私は魔術の素質を手に入れました。代わりに身長と視力と髪を失いました」  レイヴンは身動きが取れない。そこに、さらに黒糸が伸びてきて右肩の肉に突き刺さった。 「しかしすぐに潰えてしまったので、魔術師だった母親と妹の力を吸いました。二人は死にました」  黒糸が、今度は左頬を掠めて耳のふちを抉る。糸の先は床に突き立った。 「自分の体と母と妹を犠牲にしたことを、私はまったく後悔していません」  コウモリの顔は、そこまでは淡々とした口調通りの涼しいものだったのだが―― 「……だからあなたに腹が立ちます。なぜ私と同じように行動しないのですか」  以降こちらを睨めつけるコウモリには、いつも慇懃無礼で飄々としている彼にしては珍しく、怒りが浮かんでいた。奇妙で納得がいかないものに対する怒りが。 「俺には悪人は向いていないんだよ。お前のようなことは出来ない」  レイヴンは言った。グレインロットでの小悪党時代には喧嘩も恐喝もした。自己防衛のためとはいえ、未だに他者の命を奪っている。けれども、コウモリのように完全に自分の欲のために他を犠牲にしても平気かというと、違う。本質的には、その領域には染まれないのだ。  この性分のせいで損をしているかもしれない。しかし、受け入れて生きていくしかないと今は思っている。魔術の素質の有無と同じで。  手は自由だった。レイヴンは肩に刺さった黒糸を抜き、続けて脇腹の糸も力任せに抜こうとした。だが上手くいかない。右腰の刃を抜いて脇腹と腿に刺さった黒糸に振り下ろすと、思ったよりあっけなく切れる。切った後の黒糸を強引に抜き取って放り投げると、糸は床に落ちて形を崩し、消えた。  傷口の出血は気にしなくていいだろう。どうせ痛くない体だ。  投擲用の短刀が何本も、レイヴンに向けて放たれた。数本を避け、残りを自分の刃で弾くと、今度は新たに編まれた魔術の黒糸が飛来する。殺意のこもったそれは、こちらの体の中央を狙ってきた。胴体への攻撃はかわしたが追尾され、黒い先端が左手の肉を貫通する。  レイヴンは右刃をしまい、黒糸を握りしめて手元に引く。小柄なコウモリの体は引きずられ、体勢を崩した。力比べでは分が悪いと思ったのだろう、奴は一旦黒糸を引っ込めた。新しく魔術を編まれる前に、レイヴンは床を転がって、落ちていた――いやノトルニスが置いていった蜂蜜の瓶を拾って、投げた。 「っ!」  瓶はコウモリの顔に当たり、眼鏡が割れる。破片と匙が床に落ちて、音を立てた。割れた瓶と眼鏡で顔に傷を負ったコウモリは、血と蜂蜜でべっとり汚れた顔に手を当てて横に振る。 「あなたは……どこまでも、理解、できませんね」  怒りに加え、弱視による視界の悪さまで加わったせいか、コウモリは冷静さを欠いていた。憎らしげに周囲を凝視し、魔術言語を唱えかけた敵手の至近に飛び込んで、レイヴンは左の刃を抜く。  魔術は間に合わなかった。小男が目を見開いた刹那、レイヴンの左の刃が、彼の首に突き立った。それでも何かを叫ぼうと、執念めいたコウモリが顎を動かす。しかし言葉の形にならず、編みかけの魔術はかき消えた。    床に沈んで動かなくなったコウモリの横で、レイヴンは膝をついて息を整えていた。  途中の小部屋に閉じ込められていた人間たちや、以前アルアトでコウモリが死なせた女たち、コウモリの母や妹の他にも、少なからぬ犠牲者がいるのだろう。  彼らの仇を討ったなどと大仰に言うつもりはない。自分が生きたいがためにしたことだ。姉と一緒に帰るためにしたことだ。 「……クロウ、無事でいてくれ」  服にはコウモリの血だけではなく、自分の血も滲んでいる。意外と損傷が大きいのかもしれないが、気にしている場合ではない。レイヴンは刃を鞘に戻し、ふらつく脚を動かして歩いた。ノトルニスとクロウが消えた方向へ。   (5)  脚を引きずるようにして進み、魔術器材と積み上げられた本の山の間を抜けると、奥に木製の戸があった。クロウとノトルニスはここにいるのだろうか。鍵がかかっている風でもないので、レイヴンは戸に手をかけ、開ける。 「……君が来たのか」  あっさり開いた戸の奥にはノトルニスがいた。彼はレイヴンのほうをちらと見て、危機感のあまりない反応を寄越した。  ここはノトルニスの私室のようだ。狭い室内には甘い匂いが漂う。棚の上の蜂蜜瓶の蓋が開いているせいだろう。他には板の床に木製の机、机上の薬、安っぽい作りの寝台だけ。その寝台の上に姉が横たわっている。服は着たままで、特に乱れはない。 「クロウには何もしていないな?」  レイヴンは腰の刃の柄に手を回すが、ノトルニスは気の抜けただるい雰囲気のままだ。血にまみれたこちらの姿に目を遣っても、戦意を抱く風ではない。 「薬が強かったのかな。気付け薬を嗅がせても起きないから、寝かせておこうと思って」  わずかに迷った後、レイヴンは刃の柄から手を放して姉に近づいた。息はある。本当に眠っているだけのようだ。 「君が一人で来たなら、コウモリは……そうか。上手くいった被験体だったんだけどな」  後方で、ノトルニスが物惜しげに呟いた。惜しむ理由は仲間を亡くしたからというより、実験結果がなくなったからのようだが。 「クロウ?」  レイヴンはノトルニスには対応せずに、姉に声をかけた。顔に黒い髪が何本も貼り付いている。  起きないのか、童話の王子のように口づけでもいるのか――そう思ったとき。 「……ィ、ヴン」  姉の唇から声が漏れ、一瞬、目が覚めたのかとどきりとした。うわ言か。 「俺はここにいるよ」  寝台の横で身をかがめて、レイヴンはクロウの顔にかかった髪を退けてやった。手には血がついていたから顔や髪を汚してしまったが、今は構っていられない。 「錆の谷に帰ろう」  安心させるように笑って、汚れた手のままクロウの頬を撫でると―― 「……ん」  彼女はうっすらと、黒い目を開けた。初めはぼんやりした様子だったのだが、こちらが血で汚れているのに気がついたらしい。ぎょっとして上半身を起こし、痛ましげな面持ちで弟の肩や手を確認する。 「レイヴン、この怪我……!」 「これぐらい平気だ」 「そんなはずない! ノトルニス、ここの魔術の器材はどこ? 今すぐ出して!」  クロウが鋭い声を飛ばす。退屈げにしていたノトルニスは、姉につられて背後を振り返ったレイヴンの姿に口を尖らせた。納得がいかなくて不愉快だと、顔に出している。 「クロウ。君は、レイヴンでないと駄目なのか」  ノトルニスの指摘にクロウは頷く。それから宣言するように告げた。 「私はレイヴンが大事」  小さな部屋の中に響いた姉の声は、ノトルニスにはどう聞こえただろう。彼は落胆した息を吐いて蜂蜜の瓶を取り、中身を匙で口に入れた。それから青い目をクロウに向ける。 「……私相手に魔術で脅す必要はないよ。洗う水と薬と道具を用意する」  ノトルニスに通用する心算があったのか分からないが、クロウは寝台の上で何らかの魔術を編みかけていたらしい。それを不要だと制して、ノトルニスはぼさぼさの金髪を掻く。姉弟に警戒することなく蜂蜜を棚に戻すと、部屋を出て行った。    しばらくして、ノトルニスは律儀に器具を抱えて戻って来た。逃げ出す気配がないのは、クロウへの執着ゆえだろうか。  レイヴンは魔術師二人に傷口を洗われ、縫われ、薬を打たれ、布を巻かれた。クロウが見ている前では、ノトルニスも毒を用いたり、わざと治療法を間違えたりはしないだろう。そう考えて、レイヴンはノトルニスが加わっても拒まなかった。  怪我のせいで体が熱っぽいレイヴンが、処置の後も部屋の壁にもたれて足を投げ出していると、 「……昔、教師が言った。君は才能がある、自分の好きなことを突き詰めればいいって。だから学問を頑張った。そうしたら弟に嫌われた。そのうちアルアトに嫌われた。クロウにも嫌われた」  ノトルニスは悲しげに笑った。レイヴンも、かがんでレイヴンに寄り添うクロウも笑わなかった。 「人がどこまで出来るのかを探究するのはこんなに楽しいのに、みんな嫌う」  金髪の魔術師は残念そうに目を伏せる。  彼にはない。傷つけることを楽しむ悪意も、多くの犠牲を生んだことへの罪悪感も反省も、ない。 「レイヴンは魔術師じゃないのに、クロウはレイヴンが欲しいのか」  ノトルニスは長い金髪を揺すって、戸のほうを見た。正確には、戸の向こうの作業部屋に思いを向けているのだろう。 「私がいなくなったら、ここにある道具や資料はみんなアルアトの財産になるんだろうね。本質的な部分は全部私の頭の中だから、持って行っても役に立つか知らないけど」  この魔術師は器材、資料、道具、知識の類には、関心を示すのだ。人命や人心にはさほど示さずとも。 「クロウ」  名を呼ばれて、姉はノトルニスの顔を見た。金髪の魔術師は、何かを決意したように顔を引き締めている。けれども、どことなく不安を覚える陰鬱を帯びていた。 「クロウにあげるよ。私の知識の、一番核の部分を。棚の蜂蜜も持って行っていいよ」 「核、って……」  急に何を言い出すのかと、クロウは戸惑った様子だ。 「私自身の知識を自在に引き出せる、本のようなものかな。中にはレイヴンの処置に役立つものもあるだろう。見た目は本じゃなくて、石だけど」 「! それはどこにある?」  希望を見出したのだろう。話に食らいついたクロウに、ノトルニスはぽんと告げる。 「今から私がなる」  レイヴンはぽかんと口を開けた。どういうことだ? なる? 今から? ノトルニス本人が? 「魔術、か……?」  訝しんで声を絞り出すと、ノトルニスは頷いた。 「うん。永遠の命を検証してたときに、見つけた技法。一度石になったらもう人には戻れないから、意味がないものだと思ってたけどね……欲しいよね、クロウ?」  無邪気に喋ると、ノトルニスはクロウに目くばせした。  対するクロウは、困ってしまったのか視線を彷徨わせた。石になるのは、罰を受けずにアルアトの追跡から永遠に逃げることではないのか――レイヴンにも、それくらいは分かる。 「私は――」 「いらないなら君の魔術で粉にしてくれても構わない。石は生物じゃないから、粉末化の魔術も通じる」  喋りながら、ノトルニスはふらりと天井を仰いだ。天井には魔光灯の緑の明かりがぽつぽつと灯っている。 「前に太陽を見たのはいつだったかな。最近ずっとこの洞窟の中だった。蜂蜜くらいかな、息抜きは」  ノトルニスはまた蜂蜜瓶を取って、中身をすくう。口に入れて、これ甘いね、と感想をつけた。  彼は瓶を戻し、一つ息を吐いて、言葉を紡ぎ始める。魔術言語のようだ。しかし聞き覚えのない単語だったので、レイヴンには彼の魔術言語が何を意味するものか分からなかった。  そばにいる姉なら、意味が分かるのだろうか。彼女はレイヴンの手をぎゅっと握っていた。どんな心中でいるのか、ノトルニスを止めようとはしなかった。  ノトルニスが魔術言語を唱え終えたとき。レイヴンはふと、疑問が浮かんだ。 「その、何だ。お前が知識を刻んだ石になったとして。もし石がクロウの手から離れたら、お前の行動を繰り返す奴が出るんじゃないのか」  魔術師はこちらを見て、どこか不健康な笑みを作る。 「察しがいいね。そうなったら……」  直後。ノトルニスの周囲が歪み、 「私の勝ちだ」  言葉が放たれると同時に、彼の魔術師の姿は瞬時に圧縮され、消えた。  代わりに手のひらに乗るくらいの、小さく丸い灰褐色の石が現れて、  ――かつん。  音を立てて床上をはずんだ。 (6)  □  夜の風が、岩や木々の間を通り抜けていく。昼間の暑さを忘れるような、気持ちのいい風だ。  レイヴンとクロウの二人は、洞窟の外の草原で寄り添って座っていた。空は宝石箱をひっくり返したかのような、一面の星空だ。錆の谷でメイリ川の温泉に浸かって、夜空を見上げていたのを思い出す。  あの後、ノトルニスの部屋から出ないで休んでいた二人は、アルアトの調査隊に見つかった。彼らは怪我のせいであまり体力のないレイヴンを、外に連れ出してくれた。  現状、自分たちは調査隊の野営地に保護された身だ。この後はアルアトに連れて行かれて、お前たちはなぜあんなところにいたのだ、ノトルニスはどこに行ったのだと、執拗に尋問されるに違いない。  調査隊から借りた魔光灯のランプで、姉弟は明かりを得ていた。 「昔、ノトルニスが言ってた。ノトルニスとジェイの兄弟は孤児で、素質を拾われてアルアトに送られたって」  クロウの手のひらの中には、丸い石がある。ノトルニスの化けた石だ。傍目にはそこらに転がる普通の石ころと大して違いがない。少なくともレイヴンには違いが分からない。調査隊の面々も、この石に気づいてはいないようだ。 「レイヴン」  石を足下の革袋にしまって、クロウが声をかけてくる。 「あなたが生き続けるのは、長い長い戦いになる。私は、あなたがどれだけ苦しんできたか知ってる。だから確認したい」  クロウは唇を引き結んで、じっとこちらの顔を見つめ、それから聞いてきた。  とても単純な意思を。 「生きたい?」 「もちろんだ」  レイヴンは、はっきりと肯定した。  クロウは石をしまい込んだ革袋に、険しい顔で視線を遣った。どう扱っていいものか、未だ不安なのだろう。 「この石は、怖い。恐ろしい知識の塊。私の技術で、この石に……ノトルニスに追いつくかは分からない。だけど、あなたが戦うなら、私も戦う」  レイヴンの汚れた服の上から、クロウが抱きついてくる。背中に彼女の腕が回り、胸には重みがかかった。血の通う者の体温が、服越しに伝わってくる。 「私はあなたの苦しみを遠ざけるために、一生をかけて、手を尽くす」 「ありがとう、クロウ」  自らも腕を動かしてクロウを抱きしめる。この体温に、重みに、レイヴンは心から感謝した。  その後二人で草に寝転がって、星を見た。白っぽい星、赤い星、大きな星、小さな星……星には名前がついていて、専門の魔術師たちによって動きが観測がされているのだと、クロウは言う。 「今の時期なら、あの四つ星が北東になる」  仰向けに寝転がったままで、クロウが天を指差す。北東は、もちろん自分たちの家の方角だ。 「錆の谷に帰ろう」  草の上で、自分に向けて伸びてきた姉の手を、レイヴンはきゅっと握り返した。  (探究者・了) ■[chapter:10 白と白]  ぱちゃっ。  水音を立てて、レイヴンは手を湯に沈めた。  夏の夕方の錆の谷、メイリ川の川原にある露天風呂。レイヴンとクロウは昼間の汗を流していた。  錆の谷の夏は湿気が多いから、温泉に入るのは本当に気持ちがいい。白い三つ編みを後頭部に留めて、レイヴンは湯を囲む岩に背を預けた。  この温泉は襲撃者との戦闘でクロウが空にしたのだが、姉弟が帰還したときには湯が戻っていたので、早速利用している。 「レイヴン、体はどう?」 「悪くはなってない」  長い黒髪を結い上げて、肉感的な裸身を晒す姉を正面にして、同じく裸で湯に浸かるレイヴンは正直に答えた。  アルアトで散々聴取された後、やっと解放されて錆の谷に帰って来たのは夏だった。帰って来てからのクロウは忙しい。石から引き出した知識を元に、部屋にこもって新しい薬を調合している。そして事細かにレイヴンの状態を確認していた。  近くの住人から薬の依頼も来る。生活の糧のためとはいえ、家にこもりっきりで作業では体に悪い。温泉に入るのは、自分の湯治もだが、姉の気分転換でもある……と、レイヴンは思っている。  レイヴンは指を――指についた温泉水を舐めた。苦い。塩が含まれる温泉のはずなのだが、自分の舌では、塩辛いのではなく苦い。新しい薬を投薬してもらうようになってから、温泉の湯を苦く感じるようになった。  それにクロウに作ってもらう栄養剤も苦い。甘さも酸っぱさも感じなくて、ただ苦い。味が分からなかった頃のほうが飲みやすかったくらいだ。味覚が戻ったと喜んだクロウにそのことを話したら、怒られた。「せっかくの回復の兆しを何だと思っているのか」と。  ……そうは言われても、苦みしか分からないのでは苦しい。若干空腹の感覚も戻ったので、余計に。  レイヴンは次に、手の甲をつねったり、口内を噛んだり、髪を引っ張ったりした。痛くなかった。痛覚はどうも元に戻る風でないので、怪我を避けるしかないと思っている。過去に散々暴れてきた手前、大人しくするのはどうにも難しいが。  まあ、外傷に関してはクロウに体を見てもらえばいい。混浴を続ける理由が出来たと、レイヴンは能天気に考えることにしていた。一人よりも姉と一緒に風呂に入るほうが楽しい。姉の胸や尻を見るのは楽しい。生きていて本当によかった。   「体調が悪くなってないなら、それでいい。新しい治療の効果は、ゆっくり出ると思う」 「……石のおかげ、になるな」  クロウは頷いた。同時に複雑な顔になった。  ノトルニスの石は、見た目には何の変哲もない石ころだ。クロウの部屋の、日当たりのいい所に置いてある。  明るいところで見ても、レイヴンの目には、この川原にごろごろ転がっている石と違いがあるように思えない。管理はクロウに任せているし、万一思い余ったクロウがメイリ川の川原に捨ててしまったら、レイヴンには探しようがない。  この石の存在は、自分たち姉弟しか知らない。アルアトで質問攻めに遭ったときも隠し通した。存在が知られたら、石は取り上げられる。ひどい場合は、ノトルニスの追随が現れて石を悪用する――クロウがそう判断してのことだ。  クロウの判断が正しいのかどうかを評する権利は自分にはない。彼女の治療を受けている立場で、正しいだの間違っているだのと理屈をこねる気にはなれないのだ。石がアルアトではなくクロウ個人の手にあることが、たとえ後世にとって大損であろうとも。  魔術都市アルアトでは、ノトルニスは行方不明扱いになっている。長老会の一員を殺し、残忍な実験をし、悪薬をばらまいた大罪人として。発見者には賞金が出るらしいのだが、得る者のいない金だ。  各地で売られていた「魔術師になれる薬」は、今後厳しい取り締まりがされると、紅の魔女から連絡があった。きっと被害は縮小していく。 「紅は、家族の責任を背負って生きていくって。それが自分の宿命だって」 「そうか……大変だな」  祖父の不祥事は、このあとずっと彼女に圧し掛かるのだろう。 「ジェイが上手い具合に支えてくれればいいけどな」  レイヴンは金髪の兄弟魔術師の、弟のほうを思い浮かべた。  姉弟はアルアトから帰る前に、紅とジェイに会っていた。紅の魔女ピジョンブラッドは、クロウがアルアトに住み着くものと思っていたらしい。錆の谷に帰ることを話したときの紅は、不満をありありと顔にと出していた。  最近紅からクロウに手紙が来たとき、レイヴンに宛てたものもあったので、恋文かと思って喜んで開封したら、クロウを連れて帰ったことへの当てこすりが書き連ねてあった。戦慄ものだ。女の友情は理解できない。   ノトルニスの石のことは、ジェイにも話していない。兄は行方不明というアルアトの見解にも今一つ納得していないようで、何度も尋ねられたが、内心申し訳なく思いつつもレイヴンは答えなかった。こちらの態度から、兄は死んだか、それに近い状況だろうとジェイは推測しているようだ。兄に似ているせいでアルアトでは居心地の悪いはずの彼だが、家族の責任を背負うと決めた紅に影響され、アルアトに残った。ジェイが紅を置いてアルアトを飛び出すことは、おそらくないだろう。   「紅は何で俺を目の敵にするんだろうな」  白い髪を掻いて、レイヴンがぼそりと呟く。紅は綺麗な女だが、敵視されるのは怖い。クロウは首まで湯に浸かると、やや俯いて答えた。 「魔術師は働け。功績をあげろ。魔術師の子を成せ。優秀であればあるほど、世の中に奉仕する義務がある……それが、アルアトの風潮。レイヴンと一緒だと、私は魔術師の務めが果たせなくなるって、紅は考えてる。多分」 「……窮屈なもんだな」  間違った考えだとは思わない。しかし堅苦しくて窮屈だ。 「アルアトの風潮は、私には合わなかった。紅のことも、勤め先の人のことも、尊敬してるけど」  クロウは物悲しげに、南西を見た。魔術都市アルアトの方角だ。アルアトはクロウが育った場所、生活していた場所だ。しかしすぐに視線をレイヴンに戻して、微笑んだ。 「私は錆の谷がいい。レイヴンと生きたい」  その後しばらく温泉に浸かっていると、日が落ちて暗くなってきた。姉の裸は惜しいがそろそろ湯から上がろうかと、レイヴンが湯の中をざぶざぶ歩いて、服と二振りのナイフの置いてある岩に近づいたとき。 「レイヴン、お願いがある」  クロウが呼び止め、頼みごとをしてきた。 「長生きして」  ……と。  一人の人間がどれほどの間この世に生きてあるのかなんて分からない。寿命は自力ではどうにも出来ない。そんな醒めた正論が頭に浮かんだが――懸命になっている姉にぶつける言葉には思えなかった。 「分かってるよ。栄養剤も睡眠薬も大人しく飲む。だからクロウも、俺が爺さんになるまで見捨てないでくれ」   レイヴンはもう一度姉の前に行って、安心させるように穏やかに言った。  長生きしたいという気持ちは同じだったからだ。  クロウは、大きく頷いた。  ◆  錆の谷と呼ばれる、温泉の湧く僻地。  川原の片隅に建つ家には、薬に通じた魔女がいた。  魔女は木の皮や草を煎じ、煮詰め、精製して薬を作った。  病に倒れた者、怪我を負った者を受け入れて治療した。  腕のいい魔術師として称えられ、魔術都市から何度も召喚の声がかかったが、魔女は毅然として断り続けた。  魔女は弟と二人暮らし。  弟は若いうちから白い髪で、魔術は使えなかったが、魔女の仕事を手伝っていた。  たまに来る女の客に声をかけては、不機嫌になった魔女に白髪を引っ張られていた。  何か病があったのか、彼は魔女から薬をもらっては使用していた。  ときおり薬の味に文句を言いながら。  錆の谷で、姉弟は一緒に生きた。  老いて魔女の髪が白くなるまで、共に。  (黒い魔女と白い弟・了) ------------------------------------------------------- [[jumpuri:投稿済の章一覧 > http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4940819]] --------------------------------------------------------------- 制作者:asahiruyu(黒江イド) http://herbsfolles.blog103.fc2.com/ pixiv版 http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4621504 FC2小説版 http://novel.fc2.com/novel.php?mode=tc&nid=193226